Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 コリントの信徒への手紙一4章1~8節

聖書研究 コリントの信徒への手紙一4章1~8節(新共同訳 新約p.303)

(1) イエス・キリストに仕える者として(1~5節)

 教会が人間中心になると、互いに裁き合うようになる。そうなると、キリスト者同士で誤解が生じたり、傷つけ合ったりし易くなる。しかし、パウロは自分を「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(1節)と考えていた。そして、「管理者に要求されるのは忠実であること」(2節)なので、彼は自分勝手に対応することはなかった。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされ」(5節)る。それ故、パウロは、他人の裁きに感情的に反応し、「先走って」(5節)他人を裁くことも、「自分で自分を裁くこと」(3節)も慎んだ。彼は自分を「裁くのは主」(4節)であると堅く信じていた。「主が来られるまで」主の裁きを待つなら、私達は「神からおほめにあずか」ることが出来る(5節)。

(2) 書かれているもの以上に出ない(6~8節)

 聖書に「書かれている」(6節)ことを越え、自分の立場や見解を絶対視する時、「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶること」(6節)が起こってしまう。また、自分が主なる神から受けた恵みを忘れる時、私達は「ほかの者たちよりも、優れた者」であるかのように自分を誇り始める(7節)。
 実際、コリントのキリスト者は、自分の「持っているもの」が全て主なる神からいただいたものであることを忘れ(7節)、まるで「大金持ち」や「王様」のように自分を誇っていた(8節)。そして、その高ぶりの故に彼らはキリストの体として一つになれず、他のキリスト者と争っていた。
 主と関わりなく自分だけで満ち足りているならば、私達は神の国の民ではなく、自分の王国の王になってしまっている。主なる神の言葉に留まる時、私達は王なる神に仕え、恵みによって与えられたものに対する感謝を失わず、謙遜に歩むことが出来る。