Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一5章1~13節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一5章1~13節(新共同訳 新約pp.304-305)

(1) コリントの教会における性的不品行(1~5節)

 キリスト者の道徳の水準は、イエス・キリストを主と信じていない人よりも高くなければならない。そのためにキリスト者は、自分の弱さを謙遜に認め、罪の根を遠ざけ、悪魔による罠を警戒し、慎み深い生き方をする必要がある。そして、罪を犯した時には直ちに悔い改めなければならない。
 コリントの教会には「父の妻をわがものとしている」人がいた(1節)。それは当時性的に乱れていたギリシア・ローマ社会においてさえ「ないほどのみだらな行い」であった。にもかかわらず、教会は、それを知りながら、「こんなことをする者を自分たちの間から除外す」(2節)ることなく、見過ごしていた。このような者の罪を明らかにし、懲らしめ、断ち切る時、教会は恥ずかしさと悲しみと痛みを経験する。しかし、そのことによって共同体の聖さは保たれる。

(2) 不道徳な人々との交際(6~13節)

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(6節)ように、罪は共同体全体を腐敗させる。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」のは、私達が「いつも新しい練り粉のままでいられる」ため(7節)、即ち生活のあらゆる領域において聖く生きるためである。罪を放置することは主なる神の御心ではない。イエス・キリストを主と信じる者は、自分の中で、或いは教会の中でパン種のように膨らむ罪を取り除かなければならない。
 パウロはコリントの教会の人々に「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」(11節)と勧告した。この手紙よりも前に送った手紙――現存していない――においても、パウロはそのことを要請している(9節)。
 教会の「外部の人々は神がお裁きにな」(13節)る。しかし、「内部の人々」(12節)、即ち信仰のある兄弟が罪を犯していることが明らかな場合、教会は正当な手続きを経て懲戒の措置をとらなければならない。そうすることによって、その兄弟に自分の行為を省みさせ、悔い改めの機会を与えるためである。私達が罪から完全に自由になることは難しい。しかし、聖い人生を生きるために努力する時、私達は少しずつイエス・キリストに近づいていくことが出来る。