Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章1~11節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章1~11節(新共同訳 新約pp.305-306)

(1) 信仰のない人々に訴え出てはならない(1~6節)

 パウロは教会共同体の中で「日常の生活にかかわる争い」(4節)が生じた場合の対処の方法について教えている。というのは、コリントの教会では「一人が仲間の者と争いを起こしたとき」、この世の人々に「訴え出るようなこと」がなされていたからである(1節)。
 パウロは「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」(7節)と指摘する。キリスト者同士で争い、第三者に裁きを委ねること自体が、利己的な欲望への敗北を証明するものであった。どちらか一方が裁判で勝ったとしても、それはキリスト者としての敗北を意味した。
 キリスト者は、神の子供としての身分を与えられており、「世を裁く」(2節)者であるばかりか、「天使たちさえ裁く者」(3節)であるとパウロは言う。それ故、その身分に相応しい生き方をしていない時、世から非難を受ける。また、教会に「ささいな事件すら裁く力」(2節)がないこと、「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいない」(5節)ことは、父なる神と御子イエス・キリスト聖霊を辱めることになる。
 コリントの教会の人々が、「聖なる者」(2節)としての正しいアイデンティティと誇りを持っていたならば、「信仰のない人々の前で」「兄弟が兄弟を訴え」(6節)、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせる」(4節)ようなことはしなかっただろう。

(2) 聖なる者とされ、義とされた者として(7~11節)

 イエス・キリストを主と信じた者は、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」(11節)た。しかし、自分の弱さを認め、聖霊の恵みと力を日々受けなければ、いつでも過去の生活へと逆戻りしてしまう。
 パウロは、キリスト者同士で裁判沙汰にまで発展しているコリントの教会の人々に対し、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(7節)と述べた。
 その一方で、「兄弟たちに対して」「不義を行い、奪い取ってい」(8節)る人々に向けて、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」(9節)と叱った。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(9~10節)とパウロは言う。
 キリスト者は、イエス・キリストに倣って愛と正義をもって互いを建て上げ、徳を高めるべきである。過去の自分に戻って、目先の利益だけを追求し、神の国の相続を忘れてしまうことほど愚かなことはない。神の国に対する希望を持っているキリスト者はいかなる現実にも揺るがない。