Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章12~20節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章12~20節(新共同訳 新約p.306)

(1) 体は主のためにある(12~14節)

 キリスト者の価値観は「主のために」(13節)生きることを望むという点において未信者とは決定的に異なる。にもかかわらず、コリントの教会の中には、「わたしには、すべてのことが許されている」(12節)と考え、体を「みだらな行いのため」(13節)に用いる人々がいた。その背景には、物質的なもの、肉体的なものを軽視する彼らの誤った理解があった。彼らは「食物は腹のため、腹は食物のためにあ」るに過ぎず、「神はそのいずれも滅ぼされ」ると考えていた(13節)。
 それに対し、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない」(12節)と反論する。そして、体は「主のためにあり、主は体のためにおられる」(13節)と体の重要性を強調し、体を通して行うべきことと行うべきでないことがあると教えた。
 主なる神はイエス・キリストを「復活させ」た「その力によってわたしたちをも復活させてくださ」る(14節)。その時、この世で「主のために」生き、神の国の建設のために働いた人間は、「永遠の住まいに迎え入れてもらえ」、「本当に価値あるものを任」される(ルカによる福音書16章9節、11節)。永遠の世界における命は永遠に続く。
 地上の生涯は数十年で終わる。しかし、私達は限りある人生を我欲に振り回されて終えてはならない。この間、霊も心も体も「主のために」用いなければならない。私達の人生は選択の連続である。キリスト者は「神のために」という観点によって日毎選択し、生きなければならない。

(2) 聖霊の住まいである体(15~20節)

 パウロはコリントの教会の人々に、彼らの体が「キリストの体の一部」(15節)であることを教える。「主に結び付く者は主と一つの霊となる」(17節)からである。
 その上で、パウロは彼らに「みだらな行いを避けなさい」と勧告し、「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」と述べている(18節)。パウロは、「二人は一体となる」という創世記2章24節の言葉を引用し、キリストの体の一部とされたキリスト者が「娼婦と交わる」ことは、「その女と一つの体となる」(16節)こと、即ち「キリストの体の一部を娼婦の体の一部」(15節)にしようとすることであると指摘する。それは、イエス・キリストの教会に対して重大な影響を及ぼす行為、即ち神の国を破壊する行為に他ならなかった。
 主なる神が御子イエス・キリストの血潮をもって「代価を払って」、私達の体を「買い取られた」のは(20節)、私達の体を「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(19節)とするためであった。キリスト者の体は、主の御心を行う聖霊の住まいとされており、「もはや自分自身のものではない」(19節)。その所有権は主なる神にある。それ故、主なる神の御心に従い、「自分の体で神の栄光を表しなさい」(20節)とパウロは語る。