Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一8章1~13節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一8章1~13節(新共同訳 新約pp.309-310)

(1) 愛と知識(1~3節)

 コリントの教会では「偶像に供えられた肉」(1節)を食べてもいいという者と、食べてはいけないという者が争っていた。「偶像に供えられた肉」とは、偶像への生贄として用いられた獣の肉で、献げ物として必要な分量だけを火で焼き、残りは祭儀の後に市場で売られた。パウロはこの問題を解決するための教えを記した。それは教会内の問題解決においてどのような基準を持つべきかも示している。
 パウロは、偶像に献げられた肉をめぐる問題を扱う前に、まず「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)と語った。コリントの教会では、肉を食べてもよいという知識を持った人も、肉を食べてはいけないという知識を持った人も「我々は皆、知識を持っている」(1節)と考えていた。そして、彼らの主張はどちらもそれなりに正当性を持っていた。しかし、彼らは「自分は何か知っていると思」っているが故に、「知らねばならぬことをまだ知ら」ずにいた(2節)。
 コリントの教会の人々は、自分が主にある兄弟と徳を建て上げ、関係を深める愛を持っていないということについて無知であった。ここでパウロは知識など一切必要ないと言っているのではない。愛のない知識を問題にしている。愛のない知識は関係を破壊し、人を傷つける。
 愛は主なる神が私達に与えて下さる賜物である。「神を愛する人」(3節)は隣人と愛を分かち合うようになる。私達は、隣人を愛する時、主なる神について更に知ることが出来る。

(2) 偶像に供えられた肉をめぐる問題(4~13節)

 パウロは、「偶像に供えられた肉を食べること」(4節)について、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(4節)と語る。万物は「唯一の神、父である神」から出、この方に「帰って行く」。またイエス・キリストによって「存在している」(6節)。それ故、偶像に供えられたということも、肉自体には何の意味も持たせない。偶像に供えられた肉それ自体が私達を汚すことはない。これが偶像に対する正しい知識である。
 その上で、パウロは、コリントの教会の中に「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去ら」(7節)ない人がいるという現実について述べる。そして、「知識を持っている」キリスト者が「偶像の神殿で食事の席に着」く時(10節)、その「自由な態度」が「弱い人々を罪に誘うこと」になると指摘する(9節)。
 知識のあるキリスト者はその分だけ信仰の自由を味わえる。しかし、その知識と自由が信仰の弱い人の躓きとならないように気を付けなければならないとパウロは結論を下す。そうしなければ、「兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つける」(12節)ことになってしまうからである。どれほど正しく、高尚な知識を持っていたとしても、信仰の弱い人に対する配慮をしないなら、それは「キリストに対して罪を犯すこと」(12節)になる。
 パウロ自身、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)と自分の決心を語っている。これは「キリストが死んでくださった」「兄弟のために」(11節)自分の権利と自由を放棄するという宣言である。彼は主なる神と隣人に対する愛に基づいて知識も自由も権利も用いようとした。そのような愛の献身を通じて教会の一人一人が立て上げられていく。