Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一9章1~12節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一9章1~12節(新共同訳 新約p.310)

(1) 使徒であることの証拠(1~2節)

 パウロ使徒としての自分の権利について話し始める。彼は「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」(1節)と4回続けて否定疑問文を用い、自分が間違いなくイエス・キリスト使徒であると強調する。
「他の人たちにとって」は使徒ではないとしても、「少なくとも」彼が開拓したコリントの教会の人々にとっては、パウロ使徒であることは疑いようがなかった(2節)。パウロは自分の使命について確信を持っていた。彼にとってコリントの教会の人々こそ自分が「使徒であることの生きた証拠」(2節)であった。

(2) 使徒としての権利(3~12節)

 コリントの教会には、パウロ使徒であることを認めず、彼を「批判する人たち」(3節)が存在した。それに対し、パウロ使徒としての自分の権利を強く主張する。自分には「食べたり、飲んだりする権利」(4節)、「信者である妻を連れて歩く権利」(5節)、「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」(6節)があるとパウロは語る。
 パウロがこのように記したのは、自分の権利を行使しようとしたからではない。働き人に対する教会の責任を明らかにするためであった。教会は、働き人が主なる神の働きに専念出来るよう、物心両面で支える必要がある。 
 パウロはそのことを明らかにするために律法を引用する(8節)。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」(申命記25章4節)という律法があるなら(9節)、「耕す者」、「脱穀する者」である使徒が「分け前にあずかることを期待して働くのは当然」のことであるとパウロは言う(10節)。
 更に、パウロはコリントの教会の人々に、「あなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ること」(11節)が何故問題になるのかと問う。また、「他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ」(5節)といった「他の人たち」がコリントの教会から支援を受ける「権利を持っている」ならば、自分達は「なおさらそう」ではないかとパウロは質問する(12節)。
 にもかかわらず、パウロは、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と考え、「この権利を用い」ず、「すべてを耐え忍んで」きたと語る(12節)。パウロは自分の権利を、イエス・キリストの福音の前進に役立てようとしたのである。福音のためならいかなる犠牲も喜んで払おうとしたパウロの決断の大きさが伝わってくる。