Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書3章1~6節

聖書研究 マルコによる福音書3章1~6節(新共同訳 新約p.65)

(1) 片手の萎えた人(1~2節)

 安息日に関する2回目の論争は会堂で起こった。イエス・キリストが「また会堂にお入りになった」時、「そこに片手の萎えた人がいた」(1節)。この人の手は麻痺状態にあったのかも知れない。安息日にこの人をめぐって展開される論争の争点は、この人が命の危険に置かれていたわけではないという点にあった。
 十戒において主なる神はイスラエルの民に安息日を守ることを命じられた(出エジプト記20章8~10節)。この戒めは、主なる神が天地万物を創造し、7日目に安息されたことに基づいている(創世記2章1~3節)。
 イスラエルにとって安息日を守ることは、その歴史を通じて生活の中心であり、神の民であることの生命線であった。事実、イスラエル安息日を守らなかったために主なる神の裁きを受け、国の滅亡を経験した(エレミヤ書17章27節)。
 ただ、安息日に禁止されている仕事が何であるかについては、聖書に具体的に列挙されているわけではない。当時のユダヤ人の間では、生死に関わるような状況でなければ(或いは、状況であっても)、病人を治療することは禁じられていると厳密に解釈する人がいた。彼らによれば、この人の治療は次の日に行われるべきであり、わざわざ安息日に癒す必要はなかった。
 会堂に集まった人々は、イエス・キリストが「安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目」(2節)した。もしイエス・キリストがこの人を癒すならば、それは律法違反であると考えたからである。しかし、病人の苦しみは彼らの眼中になかった。

(2) イエス・キリストの問いかけ(3~4節)

 イエス・キリストは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」(3節)と呼びかけられた。
 その上で、人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)という問いを投げかけられた。この問いに対する答えは明らかに前者である。主なる神は、ただ休むためではなく、命を回復するために安息日を定められた。もう一日待って、次の日に癒せばいいと考えていた人々に、イエス・キリストは、安息日に人に善を行うこと、人の命を救うことは寧ろ律法に適っていると言われた。
 イエス・キリストは、安息日の本質は、何もしないことではなく、善を行い、命を救うことであると示された。そして、安息のないこの世に真の安息と救いを与える方として来られた。この世はアダムの罪によって安息が崩れた状態にある。主なる神の大きな喜びがあった被造世界は(創世記1章31節)、罪と死で満ちている。イエス・キリストは、この世に再び主なる神の安息をもたらし、その中に留まらせて下さる方である。
 安息日に善を行い、命を与えられたイエス・キリストに倣って、私達も善を行うことに力を注がなければならない。

(3) イエス・キリストに対する殺害計画の始まり(5~6節)

 イエス・キリストの問いに対し、人々は何も答えることが出来なかった(4節)。すると、イエス・キリストは「怒って人々を見回し」(5節)た。それは、人々がこの人の苦しみを他人事としか思っていないことへの怒りであり、主なる神の律法が人を助けなくてもいい口実にされていることへの怒りであった。そして、人々の「かたくなな心を悲し」(5節)まれた。彼らは、安息日の本質に対して、そして神の国をこの地にもたらすイエス・キリストの働きに対して無知であった。
 イエス・キリストは、そのことによって自分が苦境に追い込まれると知りつつも、片手が萎えて苦しんでいる人を癒された(5節)。主なる神が命を与える時であることを証しするためにわざわざ安息日に人を癒された。イエス・キリストは安息のなかった彼に安息をもたらされた。
 にもかかわらず、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(6節)。イエス・キリストをこのまま放置したら、人々が再び安息日を軽視するようになり、イスラエルは再び主なる神によって裁かれると考えたからである。「ヘロデ派」は、宗教的にも政治的にもファリサイ派と協力することの難しいグループであった。しかし、イエス・キリストを殺すという一点において両者は結託した。

【分かち合い】
(1) 人々はイエス・キリストが片手の萎えた人を癒すかどうかに注目した。自分の苦しみが人々の論争の材料にされ、彼はどのような思いで会堂にいただろうか。(1~2節)

(2) イエス・キリストは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた。もしイエス・キリストに癒す力がなかったら、「真ん中に立つ」ことは苦しいことである。私達にとって「真ん中に立ちなさい」というイエス・キリストの言葉に応答するというのはどういうことだろうか。(3節)

(3) イエス・キリストは、一日待って、次の日に癒したら、ファリサイ派との衝突を避けることが出来た。片手の萎えた人も自分からは癒しを求めていない。にもかかわらず、イエス・キリストは何故自分から安息日に癒しを行われたのか。イエス・キリストがこの出来事を通して示そうとされたことは何か。(4節)

(4) 人々が黙っていた時、「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲し」まれた。イエス・キリストは何に対して怒られたのか。(5節)

(5) ファリサイ派の人々が、安息日に人を癒したイエス・キリストに殺意を抱くほど、絶対に赦せないと思ったのは何故か。(6節)

(6) ファリサイ派の人々は、主なる神の御心に適う生き方をしようと願い、安息日の遵守について真剣に考えた。そのこと自体は非難されるべきではない。では、彼らの問題点はどこにあったのか。彼らのような「かたくなな心」は私達にはないだろうか。

【祈り】
 イエス・キリストの父なる神よ、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。私達にあなたの御言葉を与えて下さり有り難うございます。
 主よ、あなたの御子イエス・キリストは「真ん中に立ちなさい」と仰いました。「手を伸ばしなさい」と仰いました。あなたの御声を聴く時、私達はあなたの恵みの真中に、あなたの愛の真中に立つことが出来ます。あなたが「手を伸ばしなさい」と命じて下さる時、私達は萎えた手を伸ばすことが出来ます。主よ、私達一人一人にあなたの命の言葉をかけて下さいますようお願い致します。
 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。