Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一11章17~26節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一11章17~26節(新共同訳 新約pp.314-315)

(1) 分裂によって悪い結果を招いている集まり(17~19節)

 パウロはコリントの教会の「ほめるわけにはい」(17節)かない点について指摘する。それは主の晩餐に関することであった。そして、「仲間割れがある」(18節)ことによって彼らの「集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」(17節)とパウロは言う。
「だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられない」(19節)としても、それをずっと続けていては、心に受けた傷は深くなり、皆が大きな苦しみを負うことになる。主の晩餐を分かち合う教会に分裂があっては、この世から軽蔑を受けるだけになる。
 教会は本来一つになれない罪人が、イエス・キリストの十字架によって隔ての壁を打ち壊され、イエス・キリストによって一つになった共同体である。集まりが悪い結果を招いているのは、この本質に反することをしていたからである。イエス・キリストの十字架は敵対関係を壊して家族とし、一つにならせる唯一の力である。
 分裂や争いが教会にあるとしたら、それはイエス・キリストの十字架を無駄にすることである。イエス・キリストが命を捨てて救い出した者が傷つけ合い、反目し合っては、どこに一致を見つけられるだろうか。イエス・キリストの恵みを覚え、罪ある人間に主の御業を見させていただけるように求めよう。

(2) 各自が勝手に食事をする(20~22節)

 コリントの教会の人々が「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならな」(20節)かったのは、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしま」(21節)っていたからである。教会の中に「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」(21節)というのは小さな問題ではない。このような行動は「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせよう」(22節)とすることなので、決して「ほめられるわけにはい」かないとパウロは言う。それならば自分の家で「飲んだり食べたりする」(22節)方がましである。
 キリスト者の価値は、その人の役割や能力よりも、選ばれた主なる神のご計画とイエス・キリストが払われた血の代価にある。教会は主なる神が選ばれた者の群れであるため、互いに軽んじてはならない。それ故、コリントの教会が主の晩餐を行う時に、遅れて来る貧しい者を顧みず、辱めたことは、叱責されて然るべきであった。キリスト者は唯一の神と唯一の救い主イエス・キリストの御前に等しい者である。
 教会内に階層間の隔てがあり、社会的地位によって待遇が変わるようなことは、主なる神が願われることではない。それは極めて人間的で、教会のあるべき姿とは懸け離れている。イエス・キリストのなさったことを否定するような行為をする時、私達はイエス・キリストを主とせず、軽んじている。

(3) 主の死を覚える(23~26節)

 パウロがコリントの教会に伝えた主の晩餐は、彼自身、「主から受けたもの」(23節)である。イエス・キリストは、最後の晩餐の時にパンと杯を取り、感謝の祈りを献げた(23節、25節)。そして、弟子達に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節、25節)と言われ、主の晩餐を制定された。
 キリスト者は「このパンを食べこの杯を飲むごとに」(26節)イエス・キリストを覚える。特に、イエス・キリストがその「血によって立てられ」た「新しい契約」を想起し(25節)、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」(26節)。イエス・キリストが主の晩餐を定められたのは、それを行うことによってイエス・キリストがどのように死なれたかを私達が想い起こすためであった。
 イエス・キリストは自分の命までも捨てて他の人に仕えた。この方を主と信じ、この方に従うことは、自己中心に生きることとは正反対である。自己中心に生きることは、一致をもたらして下さるイエス・キリストの力を不要のものとすることだからである。それは、イエス・キリストに敵対する世の特徴であり、キリスト者イエス・キリストを主と信じた時に捨てた筈の生き方である。そこに戻ってはならない。