Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一11章27~34節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一11章27~34節(新共同訳 新約p.315)

(1) 主の晩餐に参加するための自己吟味(27~29節)

 パウロは、主の晩餐において明らかに見られたコリントの教会の問題に対処するため、語調を強めて語る。主の晩餐に与る特権と召命は「自分をよく確かめる」(28節)ことを要求する。しかし、コリントの教会の人々は、自分の心と行動を顧みようとはしなかった。その結果、彼らは「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」ことによって、「主の体と血に対して罪を犯」していた(27節)。
 貧しい者の心を傷つける、無節制で愛のない行いは、イエス・キリストの体と血を辱める。そのような行いは、主の晩餐が象徴するイエス・キリストの贖いの死を意味のないものにしてしまう。そして、それを通して立てられた新しい契約の下にある交わりも否定することになる。
 コリントの教会の人々は「主の体のことをわきまえずに飲み食い」(29節)したため、イエス・キリストが十字架の苦難によって与える祝福を受ける群れではなく、イエス・キリストを十字架につけた人々の群れのようになってしまっていた。キリスト者は、自分をよく振り返り、悔い改めと新しい決断をもって主の晩餐に臨まなければならない。兄弟を辱め、傷つけても意に介さずにその行為を続けることは、イエス・キリストに対して罪を犯すことである。

(2) 主の懲らしめ(30~32節)

 パウロは、コリントの教会の中に「弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだ」(30節)ことについて、彼らが「主の体のことをわきまえずに」(29節)パンと杯を与ったのを主なる神が裁かれたからであると判断した。
 その上で、パウロは彼らが「自分をわきまえていれば、裁かれはし」(31節)なかったと指摘する。主なる神は、愛に満ち、憐れみ深い方であるが、懲らしめられることがないと考えるのは正しくない。主なる神は放銃を見過ごしにせず、悪を忌み嫌われる。兄弟姉妹を傷つけながら主の晩餐に加わる者は、主なる神の懲らしめを受ける。それは彼らを悔い改めへと導き、主に対して忠実にさせるためであった。
 親が自分の子供を叱るように、主なる神はご自分の民に懲らしめを与えて「裁かれる」。 そのことによって終わりの日に「世と共に罪に定められることがないように」される(32節)。苦しみを与えられた時、キリスト者はよく自分を省みなければならない。そして、主なる神の御心を覚え、罪を悔い改めなければならない。

(3) 他の人への配慮(33~34節)

 パウロは、コリントの教会が主の晩餐を正しく執り行うために、「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」(33節)と忠告した。また、貧しい人が教会に到着し、共に食事を始めるまで待つことが出来ないならば、「家で食事を済ませなさい」(34節)と語った。もしコリントの教会がパウロの忠告を聞かず、主の晩餐のために苦しみ、辱められている人をそのままにしておくなら、彼らは、主なる神から祝福ではなく呪いを受け、「裁かれるために集まる」(34節)ことになってしまうからである。
 私達は本質的に自分のことを第一に考える堕落した堕落した罪人である。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを受けた者は、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」(フィリピの信徒への手紙2章4節)うべきである。キリスト者は、十字架で死なれたイエス・キリストの肉を食べ、血を飲み、イエス・キリストと一つにされた。それ故、日々イエス・キリストの十字架を仰ぎ見、自己中心的な態度を捨て、他の人のことをまず先に考えるべきである。