Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一12章1~11節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一12章1~11節(新共同訳 新約pp.315-316)

(1) 「イエスは主である」と告白する(1~3節)

 パウロは「霊的な賜物」(1節)を誇示するコリントの教会の人々の誤りを正そうとした。コリントの教会の人々は、当時存在した宗教のように、神秘的・超自然的な体験や、恍惚状態になるなどの現象を、聖霊による業であると考えた。
 パウロは彼らに対し、聖霊の真の働きは「イエスは主である」と告白させることであると語る(3節)。聖霊は、イエス・キリストが主であることを認識させ、告白させる。イエス・キリストを主と告白し、主なる神の栄光を現すことが、聖霊の働きであるかどうかを識別する基準である。パウロはそれを教えることにより、コリントの教会の無秩序とそれによる混乱が聖霊の働きであるかを省みるようにさせた。
 コリントの教会の人々のように熱狂的で神秘的な体験にこだわることは聖霊の働きではない。思い違いを指摘されたら、すぐに悔い改めよう。そして、肉の欲に従って歩もうとせず、いよいよ聖霊の実を結ぶ者とされよう。聖霊を受けた者は、「愛」、「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった実を結び(ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節)、愛と義によって正しく生きようという意志を持つようにされる。

(2) 全体の益となるため(4~7節)

 パウロは賜物について同じ聖霊が分け与えて下さるものであると教える(4節)。その上で、主なる神は、キリスト者一人一人に「務め」を与え、「働き」を与え、それを通して御業を推し進めていかれる(5~6節)。
 体の中には様々な器官があり、夫々の器官は互いに異なるように、同じ人間、同じ賜物を持った者はいない。主なる神は「全体の益となるため」(7節)に一人一人に多様な賜物を与えられる。しかし、全ての人と賜物は、一つの目的、即ち主なる神の御心をなすために存在する。主なる神は、全ての人の内に働かれ、ご自身に従う者によってご自身のための働きをなされる。そして、それを通して主なる神のご栄光が現される。それ故、これらは全て究極的にはイエス・キリストのためのものである。
 キリスト者は自分にどのような賜物が与えられているかをよく把握するよう努め、それをしっかりと活用しなければならない。教会の指導者も、それをよく見極め、その賜物が主のために有益に用いられるよう、キリスト者を育て、導かなければならない。

(3) 一人一人に分け与えられる賜物(8~11節)

 パウロは、「知恵の言葉」、「知識の言葉」、「信仰」、「病気をいやす力」、「奇跡を行う力」、「預言する力」、「霊を見分ける力」、「種々の異言を語る力」、「異言を解釈する力」という9つの賜物を挙げ(9~10節)、これらの賜物は「同じ唯一の“霊”」が「望むままに」「一人一人に分け与えてくださる」ものであると語る(11節)。
 キリスト者は自分がどのような賜物を受けるかを決めることは出来ない。聖霊は、一人一人のキリスト者が、どのような賜物を持つべきかを、主権によって決定する。救いが主なる神のプレゼントであるように、賜物も主なる神のプレゼントである。
 コリントの教会の人々は、聖霊が御心のままに分け与えられた賜物を見て、それを自分達の基準で格付けしていたようである。しかし、賜物を比較することは明らかに主なる神の御心ではない。或る賜物を受けた人を羨んだり、見下すことは、各自に賜物を分け与えられる聖霊を蔑むことである。また、賜物を自分の力であるかのように誇るのも正しくない。聖霊が与えられる賜物はどれも尊く、教会に必要なものである。
 主なる神は賜物の多様性を喜ばれ、それを一つにする。そして、キリストの体である教会をしっかりと建てられ、成熟へと導かれる。