Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一12章12~21節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一12章12~21節(新共同訳 新約p.316)

(1) 一つの霊(12~13節)

 パウロは教会について「体のすべての部分の数は多くても、体は一つである」(12節)ことに喩えた。イエス・キリストを主と信じた者は、「一つの霊によって」「一つの体」とされる。教会は、「洗礼を受け」、「一つの霊をのませてもらった」者による共同体である(13節)。
 イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者は、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」(13節)、イエス・キリストと結び合わされ、イエス・キリストのものとされる。イエス・キリストと共に古い自分は死に、イエス・キリストによって新しく造られていく。そして、皆で一つの体を成していく。
 一つの霊によって一人のキリストと繋ぎ合わされたキリスト者は、あらゆる違いを超える一つの体である。この地にある多くの教会も、全体として一つのキリストの体であり、キリスト者はその体の部分である。その全体をもって主なる神を証しし、主なる神をほめたたえ、共に福音宣教の前進に努めよう。

(2) 多くの部分(14~17節)

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成って」(14節)いるように、一つの教会は多様な賜物を持つキリスト者によって構成されている。「全体が目」である体、「全体が耳」である体が存在しないように(17節)、教会の各部分は、唯一かつ独特であり、他のものに変わることも代えることも出来ない。
 それ故、教会の中で他の部分に対して優越感を持つことには意味がない。逆に劣等感を持つ必要もない。自分の召命と働きを大したことでないと思うのは正しくない。それは自分だけでなく、教会全体にとってマイナスとなる。主なる神の恵みは自分には十分でないと思って、他の人を妬み、羨むのは、自分に与えられた素晴らしいものを用いる機会を逸することへと繋がる。
 たとえ自分の役割が小さく見えたとしても、主のための働きは全て重要であり、どれも素晴らしいものである。主なる神は一人一人を愛し、賜物を備えられた。自分の賜物を他の人のものと比較し、優越感や劣等感を持って非難したり不平を言ったりするのは、教会の徳を建てるのとは反対のことである。キリスト者は与えられた賜物を十分に発揮出来るよう努めよう。そして、信仰にしっかりと立ち、互いを支え合いながら、主の導きに従おう。

(3) 一つの体(18~21節)

 主なる神は「御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」(18節)。体の各器官には夫々異なる働きがある。一つの体の各器官は他の器官の働きによって支えられている(19節)。それ故、目が手に向かって、頭が足に向かって「お前は要らない」と言うことは出来ない(21節)。
 同様に、主なる神は、キリスト者一人一人に違う賜物を与えられ、その賜物を発揮することを期待された。パウロは、この喩えを通して、自分の賜物を誇り、人の目に余りつかない賜物を持っている人を軽んじ、教会の一致を乱している者を叱責した。自分とは違う兄弟姉妹を尊ばないのでは、主なる神が望んでおられる教会になりようがない。
 同じ人が存在せず、皆違う賜物を与えられているのは、主なる神の御心を成就するためである。「多くの部分があっても」、体は一つである(20節)。教会は、ユダヤ人と異邦人、若い人と年老いた人、男性と女性、独身者と既婚者、金持ちと貧しい人が、イエス・キリストにあって一つとされたことによって成り立っている。夫々を違う者として造られた主なる神は、その一人一人をイエス・キリストによって結び合わされた。他の人と違う点があることは、悲しむことではなく、喜ぶべきことである。キリスト者は、主なる神の御前に遜り、互いを尊く思い、互いを支え合い、共に主なる神の御心を成し遂げていこう。