Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 コリントの信徒への手紙一14章13~25節

聖書研究 コリントの信徒への手紙一14章13~25節(新共同訳 新約pp.318-319)

[13節] 異言を解釈すること

 パウロは、「異言を語る者」に「それを解釈できる」ように祈ることを勧めた。異言を語る者も、それを聞く者も、その意味が分かるようになるためである。異言は意味の伝達において限界がある。それ故、異言を語る者は、それを解き明かすことが出来るようになることを求めるべきである。異言の解き明かしは、他の人にも、異言を語る本人にも有益である。

[14節] 理性が実を結ぶため

 パウロは礼拝における異言の機能的な限界について指摘する。異言による祈りは、普通の言葉ではなく霊において祈る。そのため、解き明かしがなければ祈る者にもその意味が分からない。それではその人の「理性は実を結」ばない。祈りの意味を祈る者が理性において理解出来るなら、悔い改め、感謝、告白、悟り、確信、決心などの実が結ばれるだろう。

[15節] 理性でも

 パウロはどのように礼拝すべきであるかという問題について語る。願わしい礼拝とは「祈り」と「賛美」を「霊で」(τὸ πνεῦμά [to pneuma])献げるだけでなく、「理性でも」(ὁ νοῦς [ho nous])献げるものである。礼拝で献げられる祈りと讃美が霊と魂の告白となり、礼拝者自身はそれを理性で受けとめるのである。ところが、コリントの教会の礼拝は、あらゆる賜物、特に異言がむやみに使われていたので、無秩序になり、混乱していた。

[16節] 教会に来て間もない人

 パウロは、「霊で賛美の祈りを唱え」ることを例に挙げ、人々にその祈りの内容が分からなければ、教会の徳を高めることは出来ないと指摘する。或る人が霊の言葉である異言によって讃美と感謝の祈りを献げても、人々にはその意味が分からない。そのため、祈りを聞いた人々、特に「教会に来て間もない人」は「アーメン」とは言えない。その人が「何を言っているのか」分からないので、その祈りは人々の徳を高めることは出来ない。