Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編78編12~22節

聖書研究 詩編78編12~22節(新共同訳 旧約pp.913-914)

(1) 出エジプトと荒れ野における奇蹟(12~16節)

 主なる神がエジプトと葦の海と荒れ野で行われた奇蹟が列挙されている。主なる神は、「エジプトの地、ツォアンの野」でエジプトを打つために10の災いを下された(12節)。葦の海では「海を開いて」道を作り、「水をせきとめて」イスラエルの民を渡らせた(13節)。荒れ野では雲の柱と火の柱をもって「彼らを導かれた」(14節)。また、「岩を開き/深淵のように豊かな水」をイスラエルの民にお与えになった(15~16節)。
 これらの奇蹟は全て神の民イスラエルを救い、彼らの必要を満たすためのものであった。このように、神の民イスラエルの歩みは、主なる神が行われる救いの御業と奇蹟で満ち溢れていた。イエス・キリストによる私達の救い、私達の巡礼の人生も同様である。全てのことは主なる神の御力と恵みの故である。

(2) イスラエルの不信仰と反抗(17~22節)

 信仰とは、主なる神が約束されたこと、即ち主なる神がその御手をもって私達に必要なものを与えて下さること、将来完全な救いを行われることに対する信頼である。反対に、不信仰とは、主なる神の奇蹟を否定すること、否定しないまでも部分的にしか認めないこと、主なる神の約束に対して冷笑的な態度を取ることである。
 イスラエルの民は、「心のうちで神を試み」(18節)、主なる神に対し「重ねて罪を犯し」(17節)た。彼らは「荒れ野で食卓を整えることが/神にできるのだろうか」(19節)、「民にパンを与えることができるだろうか/肉を用意することができるだろうか」(20節)と主なる神の全能を否定した。それに対し、主なる神は、彼らが「神を信じようとせず/御救いに依り頼まなかった」(22節)ことを「憤られた」(21節)。
 不信仰な人は、自分の経験、考え、力に依り頼み、主なる神の存在と全能を否定したり、限界を設けようとする。主なる神はそのような高慢な人々に対して怒りを燃え上がらせる。