Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 コリントの信徒への手紙二3章12~18節

聖書研究 コリントの信徒への手紙二3章12~18節(新共同訳 新約p.328)

(1) 取り除かれるべき覆い(12~16節)

「古い契約」における儀式などは、やがて来られるイエス・キリストに対する預言であり、影であり、予型である(14節)。イエス・キリストがこの世に来られたことで、旧約の全ての予型が成就された。
 最も良いものが現れれば、それより劣るものは手放すのが知恵である。光の源であられるイエス・キリストが来られたのだから、一時的な栄光は永遠の栄光に座を譲らなければならない。
 影であった律法の儀式と形式に縛られ、本体であるイエス・キリストに出会えないことは、実に愚かな態度である(15節)。聖霊の働きによって「主の方を向き直」る時、私達の目を遮っている覆いは「取り去られ」る(16節)。私達の信仰における中心はイエス・キリストである。

(2) イエス・キリストのおられる所にある自由(17~18節)

 イエス・キリストは私達に真の自由を与えるために来られた。キリスト教は人間の行為を通して救いを得ると主張する他の宗教とは根本的に異なる。個人の力によって努力し、苦行する宗教には自由がない。私達があらゆる束縛から真に自由になる秘訣は、聖霊の力を受け、イエス・キリストに立ち返ることである(17節)。
 旧約の時代の信仰者は「約束されたものを」「はるかに」「見て喜びの声をあげ」たが(ヘブライ人への手紙11章13節)、新約の時代の信仰者はイエス・キリストを明確に見る恵みを得た。イエス・キリストを信じながらも、完全な自由を味わえない人は、聖霊の助けと導きを受けながら、福音の真理の中に再び入る必要がある。
 キリスト者とは、主の栄光を見るだけでなく、「主の霊の働き」によって「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてい」く存在である(18節)。