Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 コリントの信徒への手紙二5章1~10節

聖書研究 コリントの信徒への手紙二5章1~10節(新共同訳 新約p.330)

(1) 天にある永遠の住みか(1~5節)

 パウロは、私達の「自然の命の体」(コリントの信徒への手紙一15章44節)を、「地上の住みかである幕屋」(1節)に喩えている。それは一時的で、いずれ滅びるものである。
 一方、私達が復活する時に与えられる「霊の体」(コリントの信徒への手紙一15章44節)を、パウロは「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」に喩えている(1節)。パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」(2節)いた。
 主なる神は、私達が「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(エフェソの信徒への手紙4章22~24節)るに「ふさわしい者」として下さり、「その保証として」聖霊を送って下さる(5節)。
 私達は、今自分が「重荷を負ってうめいて」(4節)いるのは、永遠に存続するもののためか、やがて過ぎ去るもののためかを吟味する必要がある。「神によって建物が備えられていること」(1節)に希望を置かない時、私達はいずれ滅びるもののために人生を賭けようとしてしまう。しかし、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」(4節)ことの素晴らしさを知ったならば、私達は、永遠に価値あるものに望みを置き、そのために全てを投資する者へと変えられていく。

(2) 主に喜ばれる者でありたい(6~10節)

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ」(4章14節)て下さると信じるか、信じないかの違いは、この世で生きている中で明らかになる。復活を信じない人にとってはこの世が人生の全てである。しかし、「主のもとに住むこと」(8節)を慕い求める人は、「目に見えるものによらず、信仰によって歩」むことを望む(7節)。信仰によって生きる人生と目に見えるものに命を賭ける人生は次元が異なる。
 その上で、パウロは「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(10節)と述べている。その報いは永遠に続くものであり、この世で既に決定されている。だから、「体を住みかとしていても、体を離れて」も、「ひたすら主に喜ばれる者」であることを求めよう(9節)。主なる神に仕えることを人生の目標とする時、私達は、苦難や試練の中にあってもいつも喜び、全てに感謝することが出来る。