Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書14章1~11節

聖書研究 マルコによる福音書14章1~11節(新共同訳 新約pp.90-91)

(1) イエス・キリストを殺す計略(1~2節)

「神の子イエス・キリスト」(1章1節)は、十字架の死を通して人類の罪を贖うために世に来られた。ところが、そのことを認めない「祭司長たちや律法学者たち」は、自分達の権威を守るために「なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考え」た(1節)。彼らは主なる神の御心を求めるよりも、人の目と民衆の騒ぎを恐れるだけであった(2節)。しかし、主なる神は、彼らの悪い計画と陰謀を通してでも、人類の救いのご計画を成し遂げられた。

(2) ベタニアで香油を注がれる(3~9節)

 イエス・キリストを心から愛した「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(4節)。人々は、香油を貧しい人達のために用いず、「無駄遣いした」と「厳しくとがめた」(4節)。しかし、イエス・キリストは、この女は「前もって私のからだに香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)と言って、寧ろ褒められた。
 大袈裟な名分よりも内面の動機や実際の献身が善悪の判断の基準であるべきである。どれほど正当な論理を主張しても、悪い意図があるならば(ヨハネによる福音書12章3~6節)、それは無益な弁論に過ぎない。愛は聖なる浪費をも喜んで出来るようにさせる。

(3) ユダ、裏切りを企てる(10~11節)

 失望は怒りを、怒りは裏切りを生む。「十二人の一人イスカリオテのユダ」(10節)は、ローマ帝国の圧制からイスラエルを解放してくれる政治的なメシアを待ち望んでいた。そのため、イエス・キリストが苦しみを受けて殺されると語られると失望した。
 その結果、ユダはお金を貰って、イエス・キリストを祭司長達に引き渡すことにした(10~11節)。主なる神の御心とは全く異なる間違った期待を抱いたため、ユダは取り返しのつかない罪に向かって突き進んでいった。