Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書15章33~41節

聖書研究 マルコによる福音書15章33~41節(新共同訳 新約p.96)

(1) 罪人のための死(33~37節)

 神の御子であっても、十字架の死は容易いことではなかった。全き人格を持っておられるイエス・キリストは、十字架の上で酷い痛みを感じ、苦しまれた。
 その上、罪に対する徹底した裁きの故に、天の父との関係が一時的に断絶するという状況を初めて経験された。イエス・キリストは苦しみの余り、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)と大声で叫ばれた。
 天の父は全地に暗闇をもたらし(33節)、痛ましい御子の姿を隠された。救いは代価のない贈り物ではない。価がつけられないほど尊いイエス・キリストの命が代価として支払われたことによって与えられたものである。

(2) 裂けた神殿の垂れ幕(38~39節)

 罪は聖なる神と私達を断絶させる。主なる神が臨在される至聖所には、大祭司だけが年に一度、贖罪日に贖いの血を携えて入ることが出来た(レビ記16章)。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれると、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(38節)、誰でも主なる神の御前に出られるようになった。
 異邦人の百人隊長も、イエス・キリストの十字架の死を目撃して、「本当に、この人は神の子だった」(39節)と信仰を告白した。

(3) 十字架のイエス・キリストを見守る女性達(40~41節)

 イエス・キリストが十字架で死なれた時、最後までその場を見守っていたのは、12人の弟子達ではなく、「イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たち」(40節)であった。弟子達ですら逃げ出したのに、マグダラのマリアや幾人かの婦人達はイエス・キリストを最後まで見守った(41節)。
 信仰において重要なのは、上辺ではなく心の中心である。どれほど表面を装っても、心からの信従がないなら無意味である。彼女達のように、いかなる脅かしの前でもイエス・キリストに従おうとする信仰が必要である。