Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書40章1~8節

聖書研究 イザヤ書40章1~8節(新共同訳 旧約pp.1123-1124)

(1) 私の民を慰めよ(1~5節)

 私達を最後まで責任をもって助けて下さるのは主なる神だけである。ユダの敬虔な王であったヒゼキヤでさえ、「自分の在世中」に「平和と安定が続く」ならば(39章8節)、その後のことは知らないという無責任な面があった。
 ご自分が立てた指導者が期待を裏切った時、民を思う主なる神の心は一層切なるものとなる。その心が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(1節)という言葉に現れている。この言葉の中に、民の罪を赦される主なる神のご計画、方法、愛、決断が皆含まれている(2節)。それらは主が来られることによって成される。
 それに対し、イスラエルは「呼びかける声」を通して宣言された言葉に従って、「主のために、荒れ野に道を備え」(3節)なくてはならなかった。その時、「主の栄光」が「現れるのを肉なる者は共に見る」ことになる(5節)。
 この世に来られた主なる神こそ、まさにイエス・キリストである。

(2) 私達の神の言葉はとこしえに立つ(6~8節)

 主なる神の慰めを深く体験するためには、人間の限界と世の栄光の空しさを認めなくてはならない。それを認めることなく自分を高めて誇るならば、主なる神の裁きを受ける。ヒゼキヤの行為とそれに対する主なる神の言葉を通して、このような真理を明確に知ることが出来る(39章6~7節)。
 主なる神に頼ることのない人間の世の栄光は、皆消え失せる(6節)。それが肉体の健康であれ、美しさであれ、知識であれ、富であれ、軍事力であれ、主なる神がその栄光を失わせる。裁きのために「主の風が吹きつけ」る時、世の草と花は到底耐えることが出来ない(7節)。
 それ故、ユダは、人間的な期待を全て置き、ひたすら主なる神の栄光に目を向けなくてはならない。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)からである。この世のいかなる権力によってもその言葉を遮ることは出来ない。