Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書40章9~17節

聖書研究 イザヤ書40章9~17節(新共同訳 旧約p.1124)

(1) 力を帯びて来られる主なる神(9~11節)

 世のあらゆる栄光が虚しいということを知った時、私達は「見よ、あなたたちの神/見よ、主なる神」(9~10節)という呼びかけを聞かなくてはならない。これが福音であるのは、主なる神が「力を帯びて来られ/御腕をもって統治される」(10節)からである。この方は強く、私達の人生に、また世界と歴史に自ら介入される。
 ユダは安全と平安のためにバビロンの力に頼った。しかしその結果は、戦争であり、捕囚となることだけであった。
 主なる神はご自分を仰ぐ者に必ず良いもので報いて下さる。それ故、主なる神は、捕囚となったユダに向かって、ご自分を「見よ」と繰り返し命じられた。主なる神だけを見上げよう。私達が期待を人から主なる神に戻す時、主なる神は自ら介入して下さる。「羊飼いとして」私達を養い、「御腕をもって」私達を「ふところに抱き」、穏やかに導いて下さる(11節)。

(2) 何にも比べられない主なる神(12~17節)

 創造世界の神秘を前にして自分の限界を認めない人がいるだろうか。驚くべき世界を造られた主なる神をどうやって否認出来るだろうか(12節)。計り知れない御心とご計画を持った主なる神に対し(13節)、有限である人間がどうして「助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる」(14節)だろうか。
 アッシリアやバビロンの勢力の前に力なく倒れるユダの現実だけを見て、主なる神の御心とご計画を推し量ってはいけない。主なる神にとっては、「国々は革袋からこぼれる一滴のしずく/天秤の上の塵」(15節)のように「無に等しく/むなしくうつろなもの」(17節)であり、島々も「埃ほどの重さも持ちえない」(15節)ものである。それらは主なる神が御心を為すための道具であり、主なる神の御心と計画を決して妨害することは出来ない。
 目の前の現実だけを見て、主なる神の御業を判断することは大きな間違いである。この世の何にも比べることの出来ない主なる神だけを見上げ、拠り頼もう。