Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書42章18~25節

聖書研究 イザヤ書42章18~25節(新共同訳 旧約pp.1129-1130)

(1) 主なる神の嘆き(18~22節)

 主なる神は、偶像を「風のようにうつろだ」(41章29節)と嘲られ、自分だけが真の神であることを証明する計画を宣言された。そして、主の僕を通してなされる「新しいこと」を告げ、全世界に向かって新しい歌で讃美せよと命じられた(10節)。
 しかし、イスラエルの姿を見た時、主なる神は「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか」(19節)と嘆かずにはいられなかった。彼らが主なる神の御業を見ても、気に留めず、主なる神の言葉を聞こうともしなかったからである。
 主なる神はエジプトからイスラエルを連れ出された後、彼らにシナイ山で律法を与えられた。「主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる」(21節)方である。
 ところが、「多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない」(20節)イスラエルは、律法を守らなかったため、アッシリアやバビロンによって「略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれ」(22節)ることになった。主なる神の深い嘆きは、選ばれた民の不忠実のためであった。

(2) それでも悟ることの出来ないイスラエル(23~25節)

 バビロンの捕囚になっても、イスラエルは主なる神の言葉に耳を傾けなかった(23節)。主なる神が何故「奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡した」(24節)のかを教えて下さる主なる神の言葉にも耳を傾けなかった。また、将来主なる神がなされる「新しいこと」に関する言葉も聞こうとしなかった。
 イスラエルがバビロンに捕われることになったのは、彼らが「主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった」(24節)からである。そのようなイスラエルに主なる神は「燃える怒りを注ぎ出し」(25節)、彼らを略奪する者の手に渡された。
 主なる神が裁かれたことを認める時、希望がある。イスラエルを略奪する者の手に渡された方が主なる神であるならば、略奪する者から救い出される方も主なる神だからである。主なる神の戒めを受けた時、私達は、別の所に失敗の原因を探さず、自分が罪を犯したことをはっきりと認めなければならない。