Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書43章14~28節

聖書研究 イザヤ書43章14~28節(新共同訳 旧約pp.1131-1132)

(1) 新しいことを行われる主なる神(14~21節)

 主なる神はイスラエルをエジプトから救い出される時、海に道を作られた(16節)。今、主なる神はイスラエルをバビロンの圧制から救い出すために(14節)、「荒れ野に道を敷」(19節)かれる。
 かつて主なる神は岩から水を出された。今主なる神は「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ」、イスラエルの神が「水を飲」むことが出来るようにされる(20節)。
 かつて「戦車や馬、強大な軍隊」(17節)に頼り、イスラエルを追跡したエジプトの軍隊は、葦の海を前に倒れた。今主なる神はバビロンを、自らが誇った船に乗って必死に逃げるようにされる。
 主なる神はあらゆる状況を圧倒する「新しいこと」をいつでも行うことが出来る方である(19節)。「たとえ主なる神であっても、こればかりはどうすることも出来ないだろう」という考えは不信仰から来る。
 そして、主なる神の御業を見て、主なる神の御名を讃美することが、私達の存在理由である(21節)。何故なら、その「力ある業」が私達を「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださ」るからである(ペトロの手紙一2章9節)

(2) イスラエルの偽りの礼拝(22~28節)

 主なる神を讃美する新しい民の幻を預言した後、イザヤは一転してイスラエルの現実について語る。
 イスラエルは、主なる神を呼ぶことをせず、主なる神を「重荷とした」(22節)。彼らは、「羊」や「穀物の献げ物」、「乳香」を携えるなど(23節)、表面的には礼拝する姿を見せていた。しかし、それは主なる神のためではなく、自分の益のためであった。そのような彼らに対し、主なる神は「あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった」(23節)と言われた。彼らは「香水萱」を買っても、主なる神のために買ったわけではなく、「いけにえの脂肪」を献げても、主なる神を満足させることはなかった(24節)。
 主なる神を最優先に崇めることこそが真の礼拝である。イスラエルの「背きの罪をぬぐい」、彼らの「罪を思い出さないこと」さえも主なる神ご自身のためであった(25節)。イスラエルは真の礼拝を献げることが出来なかった。そのため、主なる神は「聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅へ、イスラエルを汚辱にまかせ」(28節)られた。偽りの礼拝は、却って主なる神を「苦しめ」、主なる神に「重荷を負わせ」ることになる(24節)。