Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書44章1~11節

聖書研究 イザヤ書44章1~11節(新共同訳 旧約pp.1132-1133)

(1) 聖霊を注ぎ、祝福を与える主なる神(1~5節)

 主なる神はイスラエルを「わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ」(1節)と呼ばれる。主なる神は、その愛の故にイスラエルを「造り、母の胎内に形づくり」、彼らを「助け」てこられた(2節)。その直前で主が「ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた」(43章28節)と言われたのも、イスラエルに対する抑えきれない愛の故であった。
 主なる神は、イスラエルの子孫にご自分の「霊を注ぎ」、ご自分の「祝福を与える」ことによって彼らを生かし、新しくする(3節)。その時、「乾いた土地」(3節)のようであったイスラエルは、「水のほとりの柳のように」(4節)生き返る。礼拝さえ自分のために行っていた彼らが(43章22~24節)、「わたしは主のもの」(5節)と言い、自分が主なる神に属する者であることを告白するようになる。また、「『イスラエル』をその名」(5節)とし、主なる神の共同体の中に自らの存在の意味を見出すようになる。聖霊は私達が主なる神から受けた祝福の核心である。

(2) イスラエルの王である主(6~11節)

 主なる神が行われる全ての働きの究極的な目的は主なる神ご自身である。主なる神がイスラエルを選ばれたのは、「イスラエルの王」、「イスラエルを贖う万軍の主」であるご自身だけが「初めであり、終わりであること」、自分を「おいて神はない」ことを示すためであった(6節)。
 人間によって造られた偶像は「無力」で「役に立たない」存在である(10節)。それ故、偶像に拠り頼む者は、「見ることも、知ることもなく、恥を受ける」(9節)。彼らは、無力なものに頼って、空しい期待を抱き、結局「恐れ、恥を受ける」(11節)ことになる。
 それに対し、主なる神は全てのことを予め告げ、語られた通りに成就する方である。また、いかなる状況にあっても頼ることの出来る「岩」のような方である(8節)。それ故、主なる神は「恐れるな、おびえるな」(8節)とご自分の民を励まされる。キリスト者には恐れる理由も慄く理由もない。何故ならイエス・キリストが岩となって下さるからである。