Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書44章12~20節

聖書研究 イザヤ書44章12~20節(新共同訳 旧約pp.1133-1134)

(1) 偶像と薪(12~17節)

 偶像は人の手を起源としている。即ち、偶像は人の道具と技術によって作られたものに過ぎない(12~13節)。また、造られた偶像を維持することにも人の力が加わる(41章7節)。従って、偶像が自ら出来ることは何もない。人から多くの時間と情熱と努力を奪っていく偶像が、どうやって自ら人を救うことが出来るだろうか。それ故、偶像は決して本当の神になることは出来ない。
 また、偶像礼拝が矛盾である理由として、偶像を作る時に使う木が、火を起こす時に使われる薪と本質的に同じであるという点を挙げることが出来る(14~15節)。薪として使われる木が(16節)、外見だけ神の形を備えているとしても神になり得るのだろうか(17節)。たとえ金を被せたとしても神になり得るのだろうか。木は木でしかない。

(2) 目も心も塞がれている偶像礼拝者(18~20節)

 偶像礼拝は霊的な堕落の結果である。霊的な堕落の原因は自己中心的な欲望である。自己中心的な欲望は、その人の目と心を塞ぎ(18節)、その人から「反省すること」と「知識」と「英知」を奪い取る(19節)。その結果、心は「悟ること」も「理解すること」も出来なくなる(18節)。
「惑わされた心」(20節)は、木が木でしかないということが「見え」(18節)なくなる。自分が「半分燃やして火にし/その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた」(18節)木に「ひれ伏して拝み」、「お救いください、あなたはわたしの神」(17節)と祈ることを、何とも思わなくなるのである。
 このような愚かな考えがイスラエルの民の間で蔓延していた。彼らは木を薪にも神にもなると考えた。同様に主なる神に対しても自分のためにいつでも利用することの出来る存在であると考えた。被造物を創造主と見なし、創造主を被造物に転落させることは、創造の秩序を破ることである。そのような転倒を主なる神は忌み嫌われる。「木の切れ端」(19節)で造られたものに過ぎない偶像に何かを望むというのは、「灰を食ら」(20節)うように愚かで、虚しいことである。