Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書46章1~7節

聖書研究 イザヤ書46章1~7節(新共同訳 旧約pp.1137-1138)

【概要】
 イザヤはバビロンの滅亡とイスラエルの解放について預言した。特に、バビロンの偶像の無力さとの対比において、歴史を導き、そしてイスラエルの民を救われる主なる神の御業が生き生きと語られている。

【歴史的背景】
 紀元前586年のエルサレム陥落によって、イスラエルは王も神殿も国土も全て失い、国の主だった人々は遠く離れた異国の地バビロンに連行される。捕囚としての数十年間はイスラエルにとって暗黒の時代であった。また、古代の近東において戦争は夫々の国の神々の戦いであると考えられていたので、国の滅亡は信仰の根幹に関わる危機でもあった。
 そうした中でイザヤは、ペルシアの王キュロスを「主が油を注がれた人」(45章1節)と呼び、主なる神が彼を用いてバビロンを滅ぼし、イスラエルを解放することを告げた。そして、主なる神への不信と疑いが渦巻いていたイスラエルに対し、主なる神への信頼を取り戻すよう呼びかけた。

【釈義】
(1) 人間によって造られ、背負われ、倒れ伏す偶像(1~2節)

[1節]
 イスラエルを捕囚の民としていたバビロンに滅亡の時が訪れる。バビロンの人々が信じ、頼っていた神々は、バビロンの敗北と破滅を防ぐことが出来なかった。バビロンの滅亡は、それらが真の神ではなく、偶像に過ぎなかったことを示すものであった。
「ベル」と「ネボ」はバビロンの代表的な偶像である。「ベル」は「主」という意味で、ヘブライ語の「バアル」に相当する。それはバビロンの主神マルドゥクに対するヘブライ語の名前であった(エレミヤ書50章2節、51章44節)。「ネボ」は「告知者」という意味で、ベルの息子であった。それは、文学と科学の神、灌漑を司る農業神として信仰されていた(鍋谷堯爾『イザヤ書注解』下 24-66章, 東京: いのちのことば社, 2014年, p.175)。バビロンには、ネブカドネツァル、ベルシャツァルなど、これらの偶像の名が付いた王がいる。ダニエルもバビロンでベルテシャツァルという名を与えられていた(ダニエル書2章26節)。
「かがみ込み……倒れ伏す」は、偶像が神としての威厳を失い、滅び行く状態を表している。「かがみ込み」と訳されているヘブライ語קֹרֵ֣ס [qō-rês]は、旧約聖書の中でここだけに出て来るので、その意味は明らかではない。「倒れ伏す」(כָּרַ֥ע [kā-ra‘])は、倒れて死ぬことを表す時によく使われている(士師記5章27節、列王記下9章24節、詩編20編9節)。
 かつてバビロンが周りの国々を打ち破った時、これらの偶像は人々の信仰を一層集めたことだろう。しかし、今それらの偶像は「獣や家畜」の荷物となって逃げ出さなければならない。無力な偶像は、それらを崇拝してきた人々にとって救いとなるどころか、厄介な「重荷」となってしまった。そのことが大変皮肉な口調で述べられている。

[2節]
 バビロンの人々が戦争に負けて捕囚として連れて行かれる時、これらの偶像は彼らを救うことが出来ない。また、自分自身を救うことも出来ない。人間が神と見なしていた偶像はその崇拝者と共に滅んでしまう。

(2) イスラエルを造り、背負い、救い出す主なる神(3~7節)

[3節]
 主なる神は、「ヤコブの家」、即ちイスラエルが「生まれた時から」ずっと顧み、守ってこられた(40章11節、63章9節、出エジプト記19章4節、申命記1章31節、32章12節、詩編22編10節、71編6節、ホセア書11章3節)(鍋谷『イザヤ書注解』下, p.175)。
「負われ」(הַֽעֲמֻסִים [ha-‘ă-mu-sîm])はעָמַס [amas](運ぶ)の分詞、「担われてきた」(הַנְּשֻׂאִ֖ים [han-nə-śu-’îm])はנָשָׂא [nasa]の分詞で、親が子供を抱いて運ぶことを表すヘブライ語である(出エジプト記19章4節、民数記11章12節、申命記1章31節、イザヤ書63章9節)。
 主なる神はイスラエルの民が作った偶像ではない。逆に、主なる神が彼らを造り、選ばれた。主なる神はイスラエルの民に神の像を作ることを禁じられた(出エジプト記20章4節)。御自分を金の子牛などの像として表現し、それを拝むことも許されなかった(出エジプト記32章35節)。主なる神はバビロンの偶像とは比べることの出来ない真の神である。

[4節]
 ヘブライ語の原文には「あなたたち」という言葉はないが、これはイスラエルのことを言っている。主なる神は、御自分の民を「生まれた時から」(3節)「老いる日まで/白髪になるまで」変わることなく、徹底的に面倒を見て下さる。
 ヘブライ語の原文ではここで「わたし」(אֲנִ֣י [’ă-nî])という1人称主格強意の代名詞が5回も繰り返されている(新改訳では「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」と原文通りに訳されている)。御自分の民が年老いても、「担い」(אֶסְבֹּ֑ל [’es-bōl;]: סָבַל [sabal] (重い荷を運ぶ)の未完了形)、「背負い」(אֶשָּׂ֔א [’eś-śā,]: נָשָׂא [nasa] (親が子供を抱いて運ぶ)の未完了形)、そして「救い出す」のは、他ならぬ主なる神であるということが強調されている。

【祈り】
 天の父よ、あなたの聖なる御名を心から讃美致します。今日もあなたの御言葉に耳を傾ける時を与えて下さり、有り難うございます。主よ、私を造り、愛し、救って下さるあなただけに頼り、あなただけを主と仰ぎ、あなたが下さる平安と喜びによって、今日も勝利することが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。