Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書48章1~11節

聖書研究 イザヤ書48章1~11節(新共同訳 旧約pp.1140-1141)

(1) 頑ななイスラエル(1~5節)

「まこともなく、恵みの業をすることもない」(1節)イスラエルには、主なる神の救いを期待するだけの功労は何もなかった。彼らは血縁的に「イスラエルの名をもって呼ばれる」ことにより、自分達は「聖なる都に属する者」であると誇っていた(1節)。そして、「主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱え」(1節)て祈り、「その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に依りすがる」(2節)と公然と口にしていた。しかし、彼らの心と行動は全く違うものであった。
 実際、彼らは主なる神の言葉を聞かずに偶像を崇拝していた。主なる神が予め語っておられなかったら(3節)、彼らは主なる神が行われた御業も偶像のおかげであると考えたことだろう。「鉄の首筋をもち/青銅の額をもつ」(4節)という表現は、彼らの頑なさを赤裸々に表している比喩である。
 このように、神の民イスラエルには主なる神の目に喜ばれるような姿は一つもなかった。このような民が救われるというのは、主なる神の素晴らしい恵みの御業に他ならない。

(2) ただ恵みの故に(6~11節)

 イスラエルの民は主なる神の恵みに対して「裏切りを重ねる者」(8節)であった。イスラエルの背きは根が深く、彼らは「生まれたときから背く者と呼ばれ」(8節)るほど、頑なであった。イスラエルは主なる神の言葉に対して耳を塞ぎ、真摯に主なる神を知ろうとしなかった(8節)。
 しかし、主なる神は、ご自分の「名のために怒りを抑え」、ご自分の「栄誉のために」イスラエルの背きに「耐え」、イスラエルを完全に滅ぼすことをなさらなかった(9節)。そして、「苦しみの炉」でイスラエルを「火をもって」精錬しようとされた(10節)。
 その上で、主なる神は、ご自身の栄光のために、イスラエルに対し、苦難の状態のまま放っておくことをなさらない。主は「新しいこと」を告げ(42章9節)、新しい「事を起こ」し、彼らを救い、回復して下さる(11節)。このようにイスラエルの救いは主なる神の一方的な恵みによるものである。恵みがなければ救いもない。