Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書50章1~11節

聖書研究 イザヤ書50章1~11節(新共同訳 旧約pp.1144-1145)

(1) イスラエルの錯覚(1~3節)

 イスラエルは自分達がバビロンの捕囚になったのを主なる神のせいにして恨んでいた。夫が離婚を宣言し、妻を「追い出した」ように、また父親が借金のために子供を「債権者」に「売り渡した」ように、主なる神はイスラエルを見捨てたと彼らは考えた(1節)。また、主なる神には当時の強大国バビロンからイスラエルを「救い出す力がない」と彼らは考えていた(2節)。
 それに対し、主なる神はイスラエルのこのような考えを断固として否定される。イスラエルが裁きを受けたのは、彼らが主なる神に背き、主なる神から離れたためであった(1節)。そして、イスラエルが救われないことも、彼らを救うために来た主なる神をイスラエル自身が拒んだからであると指摘される(2節)。
 主なる神は「天」や「海」や「大河」さえも自分の思いのままにすることの出来る方である(2~3節)。にもかかわらず、イスラエルは力ある神を拒んだ。

(2) 主の僕の忍耐(4~11節)

 主の僕は苦難の中でどのような態度を堅く保つべきかを身をもって示した。主の僕は、主なる神が彼を「助けてくださる」こと(7節、9節)、彼の「正しさを認め」(8節)、弁護して下さることを確信していた。
 それ故、苦難の中でとるべき態度は、「主の御名に信頼し、その神を支えとする」(10節)ことであると主の僕は語る。主なる神の御心を悟ったことによって、主の僕はいかなる敵をも恐れず、決然とした態度で行動することが出来た(8節)。自分に対する侮辱にも耐えることが出来た(6節)。自分を「罪に定め」(9節)ようとする陰謀にも絶望することはなかった。
 主なる神はご自分の僕を助け、弁護される。主の僕に酷い言葉と行動をもって敵対した者は主なる神の裁きを受ける(9節)。これは私達が握るべき真理である。