Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書52章1~10節

聖書研究 イザヤ書52章1~10節(新共同訳 旧約pp.1148-1149)

(1) 奮い立て、シオンよ(1~6節)

 エルサレム(シオン)は、衣を剥がされて恥を受け、立ち上がることが出来ない女性のようであった。また、悲しみのために座り込んで泣いている者、鎖に繋がれている奴隷や捕虜のようであった。イスラエルの民は、かつてエジプトとアッシリアに搾取されたように(4節)、この時バビロンに抑圧されていた(5節)。また、エルサレムの滅亡によって主なる神も侮りを受けた。
 しかし、主なる神はイスラエルに「立ち上がって塵を払え」 (2節)と語られた。「首の縄目を解け」(2節)と命じられた。「輝く衣をまとえ」(1節)と勧められた。バビロンが、イスラエルを抑えつける権利などないにもかかわらずイスラエルを抑圧し、また主なる神の御名を嘲ったからである。
 主なる神がバビロンを裁くことを通して、イスラエルは、この方が真の「神であること」、そして「『見よ、ここにいる』と言う者であること」を再び「知るようになる」(6節)。

(2) 良い知らせを伝える者(7~10節)

 イスラエルは絶望に囚われ、茫然として座り込んでいる人のようであった。そのような彼らが再び立ち上がることが出来たのは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ」、「あなたの神は王となられた」と告げ知らせる伝令が近づいていたからである(7節)。「主がシオンに帰られるのを」「目の当たりに見」て、「見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌」った。そして、エルサレムの城内の人々は、見張りの声を聞いて、「歓声をあげ」、「共に喜び歌」い、「その民を慰め、エルサレムを贖われた」主を歓迎した(9節)。喜んでもよい時が来たのである。
 主なる神が抑圧者を打ち、イスラエルを救われることは、イスラエルのためだけの出来事ではない。主なる神が「聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされ」る時、「地の果てまで、すべての人」が主なる神の「救いを仰ぐ」(10節)。それは世界的な出来事である。義なる神が悪の勢力を裁き、ご自分の民を救い、王として自ら統べ治められることは、「地の果てまで」伝えられるべき福音である。