Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書52章11~15節

聖書研究 イザヤ書52章11~15節(新共同訳 旧約p.1149)

(1) 立ち去れ、そこを出よ(11~12節)

 主なる神はバビロンを「汚れたもの」と見なされ、イスラエルにバビロンから「立ち去」り、エルサレムに戻るように命じられた(11節)。偶像礼拝による背きの生活から抜け出すように要求されたのである。特に、「主の祭具を担う者」には「身を清め」るように求められた(11節)。神殿の祭具を担ぐ人々に対する聖さの要求は、主なる神に仕える聖い生活に対する要求である。
 その上で、主なる神はイスラエルに、捕虜収容所から脱出した人のように、恐れながら「急いで出る必要はない/逃げ去ることもない」(12節)と語りかけられた。何故なら、出エジプトの時のように、主なる神が彼らの「先を進」み、彼らの「しんがりを守」って下さるからである(12節)。神の民にはこの方の導きと守りが約束されている。

(2) 主の僕の苦難と高挙(13~15節)

 主なる神はご自分の一人の僕を紹介される。その僕は限りなく謙り、低くなる。「彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない」(14節)という大変衝撃的なものであり、「多くの民を驚かせる」(15節)。
 しかし、その僕は主なる神によって「栄え」、「はるかに高く上げられ、あがめられる」(13節)ようになる。そして、彼が主なる神のように高く上げられる時、「王たち」は驚きの余り「口を閉ざ」し(15節)、その存在と救いの働きを悟ることになる。
 この主の僕に対する預言は、バビロンで大変低くされ、苦しみを受けるものの、主なる神の御力によって救われ、高められるイスラエルの将来と連なっている。
 更に、バビロンにおける救いの啓示は、究極的にサタンからの救いを念頭に置いている。それ故、ここに啓示されている主の僕とはイエス・キリストのことである。イエス・キリストと一つになることを通して、私達は真の救いの喜びを味わうことが出来る。