Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書53章1~6節

聖書研究 イザヤ書53章1~6節(新共同訳 旧約pp.1149-1150)

(1) 私達の聞いたこと(1~3節)

 預言者が伝えた主なる神の「御腕の力」(1節)は、人間の予想とは全く異なっていた。それは主の僕が受ける苦しみとして現れた。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない」主の僕の姿は、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝」に喩えられている(2節)。彼は主なる神の呪いと裁きを受けたかのように(4節)、「多くの痛みを負」(3節)った。そして、人々は彼を「軽蔑し、無視し」(3節)た。
 預言者は傍で観察したように主の僕の苦しみを生々しく描写している。また、それは預言者にとって未来の出来事であったが、確かに現実のものとなることを強調するために過去形で記されている。
 この啓示は十字架の苦難を受けられるイエス・キリストを通して完全に成就される。十字架の苦しみを通して救いの御力が現れたのである。

(2) 私達の背きのために(4~6節)

 主の僕が「刺し貫かれ」、「打ち砕かれた」のを見て(5節)、人々は彼が主なる神に罪を犯したために罰を受けていると思った(4節)。しかし、実は主なる神は、彼らの罪をその僕に担わせ、彼らの代わりにその僕を罰したのであった(6節)。これこそ主なる神が選ばれた罪の解決方法である。
 預言者は、主の僕の苦難を見た人々について、自分とは関係のない者のようには書いていない。預言者は自分自身も含む強調代名詞「わたしたち」を使っている。「わたしたち」にはこの預言を聞く人々が皆含まれている。
 主の僕の苦難は全ての人間が犯した罪に対する罰である。彼は全ての人間の罪を皆担われたのである。