Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書58章13節~59章8節

聖書研究 イザヤ書58章13節~59章8節(新共同訳 旧約pp.1157-1158)

(1) 安息日――喜びの日、尊ぶべき日(58章13~14節)

 安息日を「喜びの日」「尊ぶべき日」として考え、自分の「したい事をするのをやめ」ることは(13節)、「主を喜びとする」(14節)しるしと見なされる。安息日の遵守は、主なる神を愛し、主なる神を中心とし、主なる神の言葉を大切に考え、主なる神に自分を献げ、主なる神に仕えるという信仰の表明である。
 当時イスラエルの民は、安息日においてさえ、自分の利益を追求していた(13節)。それに対し、主なる神は、安息日を遵守する者に「地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる」(14節)という祝福を与えることを約束された。
 旧約における安息日は、その安息を実現されたイエス・キリストの来臨以降、主の日に発展した。それ故、キリスト者は主の日を「喜びの日」「尊ぶべき日」と考え、堅く守らなければならない。

(2) 救いを妨げるもの(59章1~8節)

 預言者はイスラエルの民に、「お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく」(3節)、「彼らの足は悪に走り/罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある」(7節)と語り、罪が具体的かつ全人的であることを指摘した。貪欲から出てくる欺瞞と暴力は、罪の正体が何であるかをよく表している。
 また、預言者は「蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。その卵を食べる者は死に/卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す」(5節)という比喩をもって、罪がもたらす悲惨な結果を明らかにした。「くもの糸は着物にならず/その織物で身を覆うことはできない」(6節)という表現は、いくら罪を隠そうとしても決して隠せないことを示している。
 罪は私達に決して平和を与えることが出来ない(8節)。そして、罪は主なる神の応答と救いの御手を妨げる決定的な障害物である(1節)。主なる神とイスラエルの民の「間を隔て」、主なる神の「御顔を隠し」(2節)たのは、彼らの罪であった。