Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書62章1~9節

聖書研究 イザヤ書62章1~9節(新共同訳 旧約pp.1163-1164)

(1) 決して黙さない主なる神(1~5節)

 主なる神は、エルサレムの「正しさが光と輝き出で」、エルサレムの「救いが松明のように燃え上がる」ようになることを約束された(1節)。
 主なる神が約束されたことを成し遂げられる時、「諸国の民」はエルサレムの「正しさを見」、全ての「王」がエルサレムの「栄光を仰ぐ」ことになる(2節)。再建されたエルサレムは「主の口が定めた新しい名をもって」(2節)呼ばれる。主なる神はそのエルサレムを「御手の中で輝かしい冠」(3節)のように尊ばれる。
 かつてエルサレムは、罪の故に主なる神から見捨てられ、裁きを受け、荒れ地となった。しかし、新しいエルサレムは、主なる神が「望まれるもの」となり、「花婿」と「花嫁」のような親しい関係を主なる神と結ぶ(4~5節)。このことが成就されるまで、主なる神は「決して黙さない」(1節)。

(2) 決して黙してはならない(6~9節)

 主なる神は約束を成就される前に、その約束の成就を切に願う人々を備えられる。エルサレムを回復する時、主なる神は霊的に目を覚ましている「見張りを置」かれる(6節)。
 エルサレムが主なる神の裁きを受けた時、「見張り」の務めを果たすべき霊的指導者は皆惰眠を貪っていた(56章10節)。それに対し、主なる神が置かれる見張りは、「昼も夜も決して黙」(6節)することなく、エルサレムの回復の約束をイスラエルの民に宣言する。
 また、「主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまで」、見張りは「主の沈黙を招」(7節)くことがないよう祈り続ける。主なる神が「御自分の右の手にかけて」誓って下さったからこそ(8~9節)、約束の成就のために祈る人間が必要だからである。
 キリスト者も、主が与えて下さった約束に拠り頼み、十字架の御前に進んで行き、切に祈り求めなければならない。