Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書66章1~6節

聖書研究 イザヤ書66章1~6節(新共同訳 旧約pp.1169-1170)

(1) 主なる神の目に悪とされることを行う者(1~4節)

 天を「王座」とし、地を「足台」とし、その全てを創造された主なる神に足りないものなどない(1節)。主なる神が心から願っておられることは、私達が謙った心で主なる神の言葉を聞き、主なる神を畏れることである(2節)。
 主なる神の「言葉におののく」(2節)ことなく、自分の思いを実現するために献げる礼拝を、主なる神は決して喜ばれない(4節)。主なる神が「呼んでも答えず、語りかけても聞か」(4節)ないのに、主なる神に何かを献げる時(3節)、その献げ物は主なる神に汚れた忌むべきものと見なされる。
 主なる神の言葉を蔑ろにして献げる礼拝は、「忌むべき偶像を喜ぶように」「自分たちの道を選」んだに過ぎない(3節)。それは主なる神の「目に悪とされることを行」(4節)っているに他ならない。
 主なる神はそのような礼拝を献げる者に対し「気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させ」(4節)る。偽りの礼拝者は最終的に裁きを受ける(マタイによる福音書13章30節)。偽りの礼拝は極めて危険なものである。

(2) 敵に報いを返される主なる神(5~6節)

 主なる神の言葉を聞きもしないのに、形だけ礼拝を献げ続けるのは、主なる神が受け取って下さると確信しているからである。自分の兄弟を憎んでいる時にも(5節)、彼らの確信は少しも揺らぐことがない。
 また、彼らは、主なる神の御名のためであるという確信をもって、主なる神の「御言葉におののく人々」(5節)を追い払う(ヨハネによる福音書16章2節)。そして、そのような人々に向かって「主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう」(5節)と嘲りさえする。彼らは、主なる神が自分達と共におられ、自分達は主なる神の御心を知っていると堅く信じて疑わない。
 しかし、このような彼らの確信は全くの錯覚である。「彼らは、恥を受ける」(5節)と主なる神は宣告される。そして、彼らの背信に対し、「報いを返される主の声」がエルサレム中に響き渡る(6節)。