Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ chap. 5

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ chap. 5
【関心・疑問】

【論文名】
第五章 唯一性と多様性

【著者名】
Rienk Bouke Kuiper (山崎 順治訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
The Glorious Body of Christ: A Scriptural Appreciation of the One Holy Scripture, Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans, 1958
(『聖書の教会観――キリストの栄光のからだ』東京: 小峯書店, 1972年)

【本文の構成】
一つの教会
多くのかたち

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 数年前、ウェンデル・ウィルキーが「世界は一つ」と題するベスト・セラーとなった書物を書きました。それは、全世界の平和共存を説いていました。彼の願望は、まことに賞賛に価するものでしたが、その著は単純すぎて、皮相的な楽観主義のそしりを免れませんでした。彼は、全般的に言って、人間性の腐敗を十分に認識していません。特に、マルクス共産主義無神論を考慮に入れていません。今日、世界は一つになることから遠く離れています。聖書は、神が新天新地をたてられる時まで一つになることはない、と語ります。(邦訳p.32)

 キリスト教会の現状も、ほとんど世界のそれと同じように、哀れな有様に見えます。すべて見たところ、それは、内輪もめして引き裂かれた家のようです。ポーチから落ちて、粉々に砕けた、美しい植木鉢のようです。爆撃で破壊され、がれきの山となってしまった大建築のようです。(邦訳p.32)

一つの教会

 信じられないと思われるかもしれませんが、イエス・キリストの教会は、現実に一つです。(邦訳p.32)

 この真理は、使徒信条のうちに信仰個条として含まれています。すなわち、〈聖なる公同の教会〉を単数で表わし、そしてこの教会を定冠詞づきで――すなわち唯一の――〈聖徒の交わり〉と定義しています。その信条に従えば、教会の唯一性は、外見でなく信仰の問題であることは確かですけれども、そのことは、その現実性をちっとも減ずるものではありません。(邦訳p.32)

 神の言葉は、明確に、繰り返し強調して、教会の統一性、個体性を意味する一致について教えています。これが新約聖書のもっとも顕著な教えの一つであるといっても過言ではありません。教会は、ひとりのかしら(エペソ一22)、一つの御霊(Ⅰコリント一二13)、一つの土台(Ⅰコリント三11)、一つ信仰、一つバプテスマ(エペソ四5)をもつ、一つからだ(エペソ四4、Ⅰコリ一二12)であると、教えています。(邦訳p.32)

 もし本当にそうなら、なぜ主イエスは、ヨハネ福音書十七章で、信徒の一致を祈られたのかと、問われるかもしれません。11節で、主は使徒たちのために「聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と祈られました。続いて二十一節では、世々の信徒たちのことを覚えられて「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」と祈っておられます。たしかに、もし信者の一致が現実にあるのであれば、それが生じるように祈ることは、余計なことと思われるでしょう。(邦訳pp.32-33)

 現代の多くの教会合同論者たちは、この十七章で、イエスは弟子たちの組織的一致を祈られたのだと、考えます。かれらは、教派の境界線を徹底的に取りさることを主張するために、信徒の一致を祈られた救い主の祈りを、言葉巧みに引用します。しかし、どんなあわて者であっても、何よりもまず、主イエスは信徒の〈霊的一致〉を考えておられたということは、分かるはずです。主は「かれと父とが一つであるようにかれらが、一つとなること」を祈っておられます。そしてまた、主はこの一致が現わされることを、願っておられました。だからこそ、「あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」と付け加えられたのです。しかし、そのことは、主が祈っておられる一致が、明らかに、霊的なものであるということを、少しも変えはしません。(邦訳p.33)

 主が、ご自身の教会の霊的一致を、祈っておられたことは、争う余地がありません。そこで、この祈りでは、霊的に教会が一つで〈ある〉という事実と、どう調和させられるかという問題が残っています。その解答は、比較にあります。キリスト者は、聖なる者です。すべてのキリスト者は、聖徒です。原理的には、かれは全き者です。しかしながら、最善のキリスト者も聖潔のうちに成長すべきであり、完全という目標に到達するまでには、走るべき遠い道程にあることは、全く明らかです。同じ意味で、キリストを信じるすべての者の霊的一致は、実際に現存しています。しかし、その満ちみちた実現と窮みまでの高さの達成は、未来にかかっています。教会の霊的一致は、現実であると同時に、現実とされなければならないものです。(邦訳p.33)

 神の教会は、破壊されたがれきの山であるどころか、使徒と預言者の上に、イエス・キリストを隅のかしら石として、彼にあってすべての建物がぴったりと組合わされ、すべての信徒が御霊によって神の住まいとして建て合わされている、完全に均整のとれた神ご自身の宮であるという事実は、現在も厳として揺るぎないものです(エペソ二20~22)。全知の神は、教会をこのように見ておられます。神の子らも、信仰の目によって、そう見ています。(邦訳pp.33-34)

多くのかたち

 ひとりひとりのクリスチャンの間に、またそれぞれの群れの間に、かなりの多様性があるということは、疑う余地がありません。それが論じられなければならない、もっともな理由は見当たりません。クリスチャンの画一化は、必ずしも良いことではありません。極端に走ると、それは悪とさえなります。教会内の完全画一化は、その美しさを増すどころか喪失してしまうでしょう。(邦訳p.34)

 神学者たちは、教会の多様性のことをよく語ります。大半の人は、そのことを善と考えます。しかし、そのことばを定義した人は、余りいません。そのことが混乱を招きました。嘆かわしいことに、〈多様性〉ということばが、群れをなすもろもろの罪を包むためにも、用いられています。(邦訳p.34)

 それは、異端を包含することさえあります。アルミニウス主義よりも、大きい異端もありましょう。ペラギウス主義は、はるかに大きい悪です。しかしアルミニウス主義もまた、誤りです。改革派信仰とアルミニウス主義との相違は、前者が神の主権を強調し、後者が人間の責任を強調するという強調点の相違に過ぎない、それゆえ改革派教会とアルミニアンの教会とが共存するのは望ましいことだなどと、だれも言ってはならないのです。明らかに、人間の責任は、神の主権から容易に引き出せるものです。だから、神の主権の強調のゆえにこそ、改革派信仰は人間の責任をも高調します。しかし、アルミニウス主義は、両者を破壊します。それは神の主権の絶対性を侵害するばかりか、神の律法の要求を、人間の弱くされた能力に合わせて調節します。ところで、すべての教理的な誤りは罪であり、アルミニウス主義も罪です。多様性という美名にかくれて、罪を尊く見せること、それ自体が罪です。(邦訳p.34)

 さらに〈多様性〉ということばは、よく教会内の分派の言いのがれのために用いられます。分派とは、罪ある徒党です。別の教派をたてるために、一つの教派を去ることは、非常に重大問題で、他に道のない場合にのみ許されることです。大して重要でない問題、例えば聖餐式で用いるのは普通のパンか、種入れぬパンかといった争点で、キリストのからだのうちに党派の生じるのは、悪魔の喜びでしかありません。多様性と分派とは、決して一つになりません。(邦訳pp.34-35)

 もし教界人がその用語を罪のためでなく、容認できる相違のためにだけ用いることにすれば、多くの誤解は除かれ、教会の一致は間違いなく増進せられるでしょう。(邦訳p.35)

 何が容認できる相違であるかは、むずかしいことではありません。画一化を考えたローマ・カトリックは、一つのことば、ラテン語を世界中の礼拝のために採用しました。しかし、実際には、キリスト教会の中には多くのことばがあり得ます。洗礼の妥当な形式として、水の中に浸す方法(浸礼)、水を注ぐ方法(滴礼)、水をまく方法(撒礼)の三形式が教会の中に見られます。教職者が説教壇で、ゼネバ・ガウンか、白麻の祭司服か、モーニングか、普通の背広か、何を着るかはどうでもよい事ではないでしょうか。スコットランド人は感受性に乏しいことで有名で、普通、その礼拝には感動させるものが少ないのですが、アフリカ人は、より感情的で、これはまた、その礼拝様式にも反映しています。しかし、相互に、この相違を欠陥と考えずに、お互いを高く評価し合うべきでありましょう。(邦訳p.35)

 このような多様性は、キリストの教会の一致を、おぼろげにするものではありません。むしろ、一段とくっきり、きわ立たせます。画一的に表わされている統一は、せいぜい表面的なもので、大抵がそうです。他方、多様性を背景とした統一は、必ず深いものです。私たちが自分と似ている人々と一つになるのは、やさしいことです。私たちに似ていない人々と一つになるのは、深い一致が表面的な相違を問題としないときにのみ、できることです。キケロは異教徒でしたが「愛は友情にまさる。友情は同意する者を互いに尊び、愛は異なれる者を互いに尊ぶ」と、賢明にも見抜いています。(邦訳p.35)

 同じように、罪のかかわりのない多様性は、教会の栄光を減殺するどころか、増大します。おなじ大きさ、おなじ形のブロック建築よりも、いろんな形と大きさの石で建てられた建物のほうが、どれだけ美しいことでしょうか。人間のからだも、その肢体の多様性から美しさをひき出しています。キリストのからだも同じです。愛が画一性を越え、多様性を抱くとき、キリスト教的徳性のもっとも大いなるものが、栄光に輝いて現わされることでしょう。(邦訳p.35)

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