Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Jean Calvin Commentarius in Acta Apostolorum

Jean Calvin Commentarius in Acta Apostolorum
【関心・疑問】

【論文名】

【著者名】
Jean Calvin (益田健次訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Guilielmus Baum, Eduardus Cunitz, Eduardus Reuss (eds.), Ioannis Calvini Opera Quae Supersunt Omnia; 48, Corpus Reformatorum; 76, Brunsvigae: C.A. Schwetschke, 1892
(『使徒行伝 上』カルヴァン新約聖書註解; 5, 東京: カルヴァン著作集刊行会 (発売 東京: 新教出版社), 1968年)
(『使徒行伝 下』カルヴァン新約聖書註解; 6, 東京: カルヴァン著作集刊行会 (発売 東京: 新教出版社), 1973年)

【本文の構成】

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
Atque hinc docemur studiose laborandum esse, ut in viam peccatores redeant. Hanc enim moderationem tenet Dei Spiritus: sed ubi ad crimen accedit pervicacia, et pervicax Dei contemptus, iam maturum est tempus poenae. Nimiom ergo arroganter illi, quibus displicet immodicus Dei rigor. Nostrum est potius meditari, quomodo olim staturi sumus ad eius tribunal. Quanquam boc est sacrum eius numen nimium despicerè, si volumùs fucum illi impune fieri. Praeterea, tot illae circumstantiae quas prius collegi, non una morte dignos fuisse Ananiam et Sapphiram satis superque probant. (Comm. Act 5:8, CR 76, p.101)
 罪びとは、まっすぐな正道に立ち帰るよう精を出し、努力しなければならないことだ。というのは、神のみたまは節度をお守りになるのであるから。しかし、片意地と一徹な神に対するあなどりとが罪に加えられる時には、神の罰はほどよい時機にやってくる。それで、神の極端な厳正さを喜ばない人たちは、自分が過度に高慢であり、尊大であることを示している。わたしたちはむしろ、究極において神のさばきの座の前に、いかにして出頭することが出来るかを考えるべきである。その罰を受けることなくして、神があなどられるのをもしわたしたちが願うならば、それは神の聖なる尊厳を余りにも無視することであるけれども、さらに、わたしが上にまとめた多くの事柄は、アナニヤとその妻とは一つの死に値するだけでなかったことを十分に示して余りある。(邦訳上p.147)

11. Factusque est timor.
11 教会全体ならびに……人たちはすべて、非常なおそれを感じた

Iterum repetit, poenam unius fuisse omnibus documenta. Sed hie nominatim düplicem timorem exprimit. Dicit, ecclesiam timuisse, quia fidèles nunquäm sic perfeote timent Deum, quin iudiciis eius admoniti magis ad hue proficiant. Itaque quotquot olim poenas impiis legimus fuisse inflictas, et quotidie infligi cernimus, toties nos Deus metu revocat a peccandi illecebris et licentia. Sic enim subinde cohibenda est caro: quia vix fraenum unum illi sufficeret; Diversus fuit in extraneis timor, non qui eos perduceret ad sincerum usque Dei cultum, sed tamen qui cogeret Deo gloriam dare. (Comm. Act 5:11, CR 76, p.102)
 彼は再び言う、一人のひとの刑罰はみなの者に対する教訓となった、と。ところで彼はここではっきりと、二種類の恐れについて語っている。彼は教会が恐れたと述べている。それは、信者たちは神の審判によって訓戒されて、これ以上益を得ることはないほどそんなに全面的に神を恐れることはかつてなかったのだから、それで神がかつて悪人を罰したまい、今日もなお懲らしていたもうその刑罰を、わたしたちが読んで知ることによって、わたしたちが悪事を働こうとする一切の気ままといざないとから身を引くよう、警告していたもうのである。というのは、肉はこのようにしばしば抑制されるべきものであるからだ。それというのも、ただ一本の手綱だけでは、ほとんどそれに対して十分ではあり得ないからである。外部の人々には、いま一つの恐れがあった。というのは、彼らはその恐れによって真心から神に仕えるまでには至らなかったけれども、その恐れは彼らをして神の栄光をたたえなければならないようにしたほどのものであった。(邦訳上p.148)

【コメント】
 主なる神の厳格な裁きを見て、無慈悲であると主なる神を非難する人がいる。しかし、主なる神の恵みと慈しみ、そして聖さを見過ごしてはならない。カルヴァンが言うように、私達は、来たるべき日に「神のさばきの座の前に、いかにして出頭することが出来るかを考え」る必要がある。もし私達が自分の誤った行為に対する主なる神の罰を避けようとするならば、それは私達が主なる神の「聖なる尊厳」を「無視する」ことを意味する。(Comm. Act 5:8, CR 76, p.101, 邦訳上p.147)