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主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Millard J. Erickson Christian Theology Chapter 2

Millard J. Erickson Christian Theology Chapter 2
【関心・疑問】

【論文名】
第2章 神学と哲学

【著者名】
Millard J. Erickson (安黒 務訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Christian Theology, Grand Rapids, Mich.: Baker Book House, 1983, 1998, 2nd ed.
(宇田 進監修『キリスト教神学』第1巻, 東京: いのちのことば社, 2003年)

【本文の構成】
第1部 神を研究すること
 第1章 神学とは何か
 第2章 神学と哲学
 第3章 神学の方法
 第4章 神学と聖書の批評的研究
 第5章 キリスト教のメッセージの今日化
 第6章 神学とその言語
 第7章 ポストモダンと神学
第2部 神を知ること
 第8章 神の普遍的啓示
 第9章 神の特別啓示
 第10章 啓示の保存: 霊感
 第11章 神の言葉の信頼性: 無誤性
 第12章 神の言葉の力: 権威

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】

神学と哲学との関係についての諸類型

1. 神学と哲学との関係については、さまざまな理解がなされてきた。まず取り上げたいのは、実質上、両者は全く関係がないとする立場である。神学は哲学から分離しているというのである。このアプローチはテルトゥリアヌス(160-230年頃)の時代に現れた。以下のテルトゥリアヌスの有名な言葉を考えてみよう。(邦訳第1巻p.37)

 アテネエルサレムは何のかかわりがあろうか。
 アカデメイアと教会は何のかかわりがあろうか。
 異教徒とキリスト者は何のかかわりがあろうか。(邦訳第1巻p.37)

 このアプローチによると、哲学にはキリスト教神学の役に立つものなど何もない。実際、神学と哲学の目標はかなり違うのであり、信徒には哲学との接触や対話は一切しないよう指導したほうがよいというのである。信仰のために、哲学などから助けを借りる必要はない。もっとも、それらの学問は、“何らかの貢献はするが”、という但し書きつきである。中世に、同じ見解をもつアヴェロエス主義という思想が現れ、二重の真理概念を説いた。この説によると、神学の真理と哲学の真理は事実上、二つの全く異なる、別々の事柄である。マルティン・ルターは、トマス・アクィナスのスコラ的カトリック哲学に反対していたため、哲学自体を否定する傾向があった。ルターは著書『卓上語録』で、「哲学を、神が定められたように、その領域にとどまらせよ。我々は哲学を喜劇役者として用いることにしよう」と語っている。(邦訳第1巻p.37)

 2. 歴史に現れた第二の立場は、哲学は神学を解明することができると考えるアウグスティヌスのものである。アウグスティヌスは、聖書の啓示を信じ受け入れることを優先させるべきであると力説しながらも、哲学がキリスト教神学をよりよく理解させる一助になると主張した。彼がプラトン哲学を採用したのは、そこに神学を表現する手段があることを見て取ったからである。たとえば、キリスト教形而上学には、神の超自然的世界と、その超自然的世界に由来し依存する被造世界という概念があるが、アウグスティヌスによれば、これはプラトンによる二元論(imagery of the divided line)を用いれば理解しやすい。一方の側にある不可視なイデア(形相の世界)は、もう一方の側にある知覚可能な対象の世界よりも真なるものである。知覚することのできる対象は、それらのイデアが落とした影に過ぎないからである。アウグスティヌス神学は、プラトンの知識論も採用した。プラトンによると、我々がもっている知識はすべて、イデアあるいは純粋な形相の知識である。我々の魂は先在的な状態において、これらのイデア(白さ、真理、椅子であること等)に遭遇している。今日経験的に知覚する事物に、それらの特質を認めることができるのは、そのためなのである。アウグスティヌスは、照明の教理(doctrine of illumination)を形成する際、プラトンのこの思想を採用した。すべての人を照らすために世に来た光(ヨハネ1:9)とは、人間の知性に諸形相を印象づける神であるというのである。(邦訳第1巻pp.37-38)

 3. 哲学が神学を立証するという考え方。キリスト教神学が、異教やキリスト教以外の諸宗教と対峙するようになると、メッセージに権威があるという真実性を中立的立場から立証する必要が生じてきた。アクィナスは、神存在を立証するものとして、アリストテレスの議論が有効であることを見て取った。この試みは功を奏し、哲学によって神学の信憑性が証明された。アリストテレスの哲学に関しては、このほかにも、「実体-出来事」の形而上学をもとに、聖餐式におけるキリストの現臨など、重要な教理が形成された例もある。(邦訳第1巻p.38)

 4. 神学は、哲学による評価にさらされるとする立場。神学は哲学によって証明できるという立場を論理的に押し進めていった結果として、神学は哲学によって証明できなければ受け入れられないという考えが現れた。理性によって検証したり論証したりできる宗教の教義だけを受け入れるとしたのが、理神論である。(邦訳第1巻p.38)

 5. 哲学は、神学に中身を与えさえするという考え方。たとえばゲオルク・ヘーゲルは、キリスト教を自らの観念論哲学の視点から解釈した。その結果、徹底的に合理化されたキリスト教ができあがった。ヘーゲルによれば、キリスト教の諸真理は、普遍的真理、すなわち歴史を方向づける弁証法的な形態の諸例にすぎない。例として、三位一体を取り上げてみよう。純粋な抽象的思想(pure abstract thought)として神は御父であるが、永遠に有限な存在へ向かう者としては御子であり、有限な存在となったことで豊かにされ、再び天に戻る者としては聖霊である。キリスト教の諸教理は、歴史を貫く三幅対の型(定立、反定立、綜合)に適合するという理由で立証され、保証される。ただしそれは、特殊な事実としてではなく、あくまでも普遍的真理としてである。このように、キリスト教に対する理解は、真理であると認められる哲学に適合するように修正されている。(邦訳第1巻pp.38-39)

【コメント】