Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Earle E. Cairns Christianity through the Centuries chap. 12

Earle E. Cairns Christianity through the Centuries chap. 12
【関心・疑問】

【論文名】
第一二章 平和時代における教義の発達

【著者名】
Earle E. Cairns

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Christianity through the Centuries, Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1954 (『基督教全史――初代から現代まで』仙台: 聖書図書刊行会, 1957年)

【本文の構成】
Ⅰ 神学――三位一体における各位の関係
 A 子の父に対する関係
 B 父に対する聖霊の関係
Ⅱ キリスト論――キリストの神性と人性との関係についての論争
Ⅲ 人間学――人の救われる方法

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 教会史には二つの大きい神学論争の時代があった。プロテスタント主義の大きい信条は宗教改革時代の神学論争のときに打ち出された。これより以前の神学論争は三二五年から四五一年までの間、教会の指導者たちが紛争を解決するために催した全キリスト教公会議において行われた。これらの会議から、あのニカヤ信条やアタナシウス信条のような、キリスト教会の偉大かつ普遍的な定式化ができた。それはキリスト教会のおもな教義が展開された時代であった。(邦訳p.180)

「教義」という言葉は、今日のような教義が放漫にされている時代にはあまり芳しくない意味を伝えるが、そのため教義がキリスト教会にとって重要なものであることを、あいまいにしてしまうべきではない。「ドグマ」という語は、ラテン語を経てギリシャ語のdogmaから来ており、これはdokeoという動詞から来ている。ドケオーは、考える、という意味である。この時期に定式化されたドグマ或いは教義は、論争点に関する聖書の意味を正しく解釈し、また哲学者たちの間違った意見(doxai)を避けるために、ひとびとが非常な努力で考え究めた結果であった。(邦訳p.180)

 この時代はまた、或る教義に対してどれほど熱心でも、もしも聖書の公平な研究がないならば、個人でも教会でも、知らず知らず誤謬におちいってしまうことがあるということの、すぐれた実例である。サベリウスが神が一であることを弁護しようとして三位一体の否定におちいってしまったのと全く同じように、アリウスは多神論の危険とかれが考えたところから逃がれようとして、父とキリストとの関係について反聖書的な意見におちいってしまった。(邦訳p.180)

 古代教会史において神学問題についての論争がなぜこんなにおそく出てきたかを不思議に思う人もいようが、迫害時代にはキリストと聖書とに忠節であることが、特殊教義の意味よりも先だったのである。国家がわからの脅威は、教会をして内部の一致を保って、共同戦線を張ることを余儀なからしめた。それからまた、コンスタンチヌスが、帝国を統一して古典文化を確保しようとした結果、教会も、教団を政治的に統一する補強剤であるために統一すなわち教義をもっていなければならなかったのである。(邦訳pp.180-181)

 聖書の意味についての意見の重大なちがいを解決するために教会の採った方法は、全キリスト教会議、或いは普遍的会議で、普通にはローマ皇帝が召集して議長を勤めたのであった。全キリスト教会によって代表された会議は七つあった(1)。全国各地の大教会の指導者がそれぞれの地方を代表し、この時代の信者の考え方を支配していた神学問題の解決を見出だすのに協力した。(邦訳p.181)

Ⅰ 神学――三位一体における各位の関係

A 子の父に対する関係

 父なる神と子なるイエス・キリストとの関係の問題は、迫害がやんですぐ教会の焦眉の問題となった。西ヨーロッパでは、たとえばテルトゥリアヌスは、三位一体の正しい解釈として、三位が本質的には一であることを主張した。それ以来、この論争は帝国の東部に集中した。教会がいつの世にもキリストについてのユニテリヤン的な思想と戦わなければならなかったことは、記憶しておかなければならない。現代のユニテリヤン主義には、もうアリウス派や、十六世紀のソキヌス派のような先駆者があったのである。(邦訳p.181)

 三一八年か三一九年、アレキサンドリヤの監督アレキサンデルは、その長老たちと「三位一体の単一性」を論じた。長老の一人で修道的な学者であり、公衆説教者であったアリウスは、説教を攻撃した。それは、神の三位それぞれの区別をはっきりさせていない説教だという理由からであった。神についての多神論的な思想を避けたいという熱望から、アリウスは、キリストの神性に対して不正を犯すような立場をとった。(邦訳pp.181-182)

 係争点の性質は救済論的であった。もしもキリストがエウセビウスやアリウスが主張したように、ほんとうの神に劣る半神人であり、その本質が父に似ているか父とはちがっているのなら、人間を救うことなどできようか? 父に対するキリストの関係はどういうものであるか? この論争は実にはげしくなり、アレキサンデルはアリウスを或る総会で除名してしまったほどであった。そこでアリウスは自分の学友であったニコメディアの監督エウセビウスの邸宅へ逃げた。論争が小アジヤを中心としたため、帝国の統一も教会の統一もおびやかされた。コンスタンチヌスはアレキサンデルとアリウスとに手紙を送って、論争を鎮めようとしたが、論争はついに皇帝の手紙の威力をもってしても、どうにもできなくなっていた。そこでコンスタンチヌスは、この論争に解決を見出だすために、教会の監督たちの会議を召集した。この会議はニカヤで三二五年の六月十九日から八月二十五日まで行われた。三百十八人の指導者が出席したが、帝国の西部からの出席者は十名にも達しなかった。皇帝が会議の議長となり、経費を負担した。これは教会が国家の元首の政治的指導権に支配された最初であった。教会と国家との関係という永久的な問題が、ここにはじめて生じたが、こうした特殊問題に考え及ぶには監督たちはあまりにも神学上の異端の処置に心をうばわれていた。(邦訳p.182)

 この会議で三つの見方が提起された。ニコメディアの監督エウセビウス(カイザリアのエウセビウスとは別人)と出席者の少数派とに支持されていたアリウスは、キリストは永遠の昔から存在していたのではなくて、時間以前における神の創造行為によって存在しはじめたのである、と主張した。キリストは父とはちがった(・・・・)(heteros)本質或いは実体である、と、かれは信じた。キリストを神と考えるのは、かれの生涯と、かれが神の意志に服従したこととによる、とした。しかしてアリウスは、キリストは無から創造され、父の下位にあり、父とは本質がちがう存在である、と信じた。キリストは父と同じく永遠ではなく、父と同等ではなく、父と同質ではない、と信じた。アリウスにとってキリストは神的であったが、神ではなかった(2)。(邦訳pp.182-183)

 アタナシウスは、正統派の見方となったものの主要代表者となった。かれの富裕な両親は彼の神学的教育を思って、アレキサンドリヤの有名な教義問答の学校に入れた。かれの著述『受肉について』は、キリストの教義についてのかれの思想を示している。会議において、まだ三十歳そこそこの若者は、キリストは永遠の昔から父とともに存在し、位格は異なるが父と同一の本質(homoousios)であることを主張した。かれがこれらのことを主張したのは、もしもキリストが、御自分がそうであると述べたものよりも劣る者であったら、人間の救主ではあり得なかった、と信じたからであった。人間の永遠の救いの問題は、アタナシウスによれば、父と子との関係のなかに含まれている。かれは、キリストは父と同等であり、同じく永遠であり、同じ実体であると信じた。そしてこれらの見方のゆえに、かれは死ぬまでに五回も追放されたのであった。(邦訳p.183)

 大多数は温厚な学者で教会史家であるカイザリヤのエウセビウスに指導されていた。論争というものを嫌うエウセビウスは、一つの見方を提案して、それがみなに妥協案として受け入れられるようにと望んだ。かれが提案したのは、アリウスとアタナシウスとの思想のうちの最良のものを組み合わせた穏健な見方であった。出席者のうち二百名以上は最初、かれの見方に従った。かれが教えたところでは、キリストはアリウスが主張したように無から創造されたのではないが、時間以前の永遠において父から生まれた。キリストは父に似ている(homoi)本質或いは同類の本質である。かれの信条は遂にニカヤ会議で引き出された信条の基盤になったが、このニカヤ信条は父と子との本質或いは実質が一であると主張するもので、この点でかれの信条とはちがっている(3)。(邦訳pp.183-184)

 キリストの永遠性と、キリストが父と同質であることの主張によって、正統派はニカヤ会議で一時的に勝利を得た。しかしここで定式化された信条を、今日教会で使われているニカヤ信条と混同してはならない。むろん今日のものがニカヤ会議での定式化から生じたことには間違いないが。三二五年の信条は「また聖霊を信ず」で終っており、そのあとにアリウスの見方を排斥する文句がある(4)。(邦訳p.184)

 三二五年から三六一年までの間、コンスタンチヌスおよびその子らの治下、正統派は反動に会って破られ、アリウス派の一時的勝利に帰した。正統派に対する第二の反動は三六一年から三八一年の間にあらわれたが、遂に正統派が勝った。テオドシウスはニカヤで正統派によって定式化された見方を、ほんとうのキリスト信者の信仰と定めたが、三二五年から三八一年までの間は苦渋と論争とがひどかった。三八一年のコンスタンチノープル会議はその決議の第一条で、ニカヤ会議での三一八名の教父の信仰は「捨ててはならない。どこまでも主たるべきである」と声明した。この決議は、四五一年のカルケドン会議で承認された。こうして、今日ニカヤ信条として知られ、教会で使われているものは、三八一年にコンスタンチノープル会議で採用された信条である(5)。三八一年から五九〇年までの間、教会はチュートン民族をキリスト教に導くことと、アリウス派を正統的キリスト教にひきもどすことで、多忙であった。(邦訳p.184)

 ユニテリヤン思想が教会内にもたらした荒廃を考慮するとき、われわれは三八一年にコンスタンチノープル会議で正統派が遂に勝利を得たことを感謝してよい。近代主義およびユニテリヤン主義の両方が関連しているアリウス派は、非正統的な教義として排除され、キリストがほんとうに神であるということがキリスト教の信仰の一項目とされた。ニカヤ会議の決議が、東方教会西方教会との間を、結局は仲間割れさせる一因とはなったが、しかしこの決定がわれわれの信仰にとって貴重なものであることを無視してはならない。とは言うものの、ニカヤ会議は教会にとってはその独立を犠牲にさせた。教会はこの時から帝国のものとなり、だんだん皇帝に主権をにぎられるようになったからである。西方の教会はこの支配を克服することができたが、東方の教会はもう二度と国家の政治的勢力の支配から免れることはなかった。(邦訳pp.184-185)

[註]
(1) ニカヤ(三二五年)――アリウス派の議論を解決するため。
コンスタンチノープル(三八一年)――聖霊の人格とキリストの人格とを主張するため。
エペソ(四三一年)――キリストの人格の一であることを強調するため。
カルケドン(四五一年)――キリストの神性と人性との関係を認めるため。
コンスタンチノープル(五五三年)――一性論論争を扱うため。
コンスタンチノープル(六八〇年)――キリスト単意論者を排斥するため。
ニカヤ(七八七年)――神の像論争によってひき起された問題を扱うため。
Edward G. Landon, Manual of Councils of the Holy Catholic Church (Edinburgh: John Grant, 2 vols., 1909) この書にはこれらの会議の諸問題や、参加人員や、おもな議論が述べてある。また会議のあった都市の名については二四〇頁の地図を見よ。(邦訳p.192)

(2) Beresford J. Kidd, Documents Illustrative of the History of the Church (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 3 vols., 1920-1941), Vol. II, p.6-10; Joseph Ayer, Jr., A Source Book for Ancient Church History (New York: Charles Scribner’s Sons, 1913), pp.297-356. エーヤーのこの箇所には、アリウス派の異端を理解する上に重要な文献がほとんど全部収録されている。又Socrates, Ecclesiastical History, I: v-ix; Eusebius, Life of Constantine, I: lxi-lxxiii. 参照。(邦訳p.192)

(3) Kidd, op.cit., Vol. II, pp.21-25. エウセビウスからその信者たちに送られたこの手紙には、かれの信条とニカヤで方式化された信条とが出ている。(邦訳p.192)

(4) Henry Bettenson, Documents of the Christian Church (New York: Oxford University Press, 1947), p.36. (邦訳p.192)

(5) Bettenson, op.cit., p.37. コンスタンチノープル会議の公教理一は、Ayer, op.cit., p.353と、Philip Schaff, Creeds of Christendom (New York: Charles Scribner’s Sons, 3 vols., 6th ed., 1890), Vol. I, pp.24-34; Vol. II, pp.57-61. (邦訳p.192)

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