Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 6

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 6
【関心・疑問】

【論文名】
第六章 一致と分離

【著者名】
Rienk Bouke Kuiper (山崎 順治訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
The Glorious Body of Christ: A Scriptural Appreciation of the One Holy Scripture, Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans, 1958
(『聖書の教会観――キリストの栄光のからだ』東京: 小峯書店, 1972年, pp.36-38)

【本文の構成】
極端な教派主義
極端な合同主義

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 キリストの教会の霊的一致は、否定できない現実です。それは一つからだ、すなわちキリストの神秘的な唯一のからだです。(邦訳p.36)

 この霊的個体性である一致を、破るものは何もありません。ほとんど無数に近い分派と教派にわかれた、外見的に絶望的な教会の分離ですらも、それを破ることはできません。一方教会の現在の分割が、その一致をはななだしく〈不鮮明〉にしておることも、認めなければなりません。それは、悲しい事実です。教会は、この悪をいやすために、打って一丸となって努力すべきではないでしょうか。(邦訳p.36)

 これに対して、要約すると三つの姿勢があります。それは、〈極端な教派主義〉〈極端な合同主義〉〈現実主義的理想主義〉の三つです。(邦訳p.36)

極端な教派主義

 非常に多くのクリスチャンたちが、信徒の霊的一致、それだけが問題であって、組織的一致、それは取るに足らないことであるという考えを持っています。ある人々などは、組織的な不統一を悪徳どころか徳であると考えるほどです。(邦訳p.36)

 この人たちは、理由にならない理由で、新しい教派を作ることをなんとも思いません。仮に、甲野乙平牧師には、聖書が信仰者の神秘的狂喜を教えているようには、考えられなかったとします。一方、山川海夫長老は、その説が聖書的であると確信しておるだけでなく、それに夢中になっていたとします。彼の心は、自分が熱狂にかき立てられるまで、満たされることはないでしょう。その結果、その教会に分裂が生じたとすれば、どうでしょうか。要するに、極端な教派主義は、多様性と教派主義とを同一視する誤りを犯しています。(邦訳p.36)

 恐らく、極端な教派主義の顕著な現われは、〈無教派〉教会でしょう。その会員たちは、教派無用と誓うでしょう。しかし、事実は全く逆で、彼らは、各個教会すべてがそれぞれ独立自主の教派であることを欲しています。(邦訳p.36)

 このような教派主義が、使徒的教会の模範から遠く離れたものであることは明白です。使徒時代においても、様々な地域に住む信徒たちの間に、大きな相違がありましたが、個々の教会は皆、一つキリスト教会のうちに結ばれていました。そして、教派は少しも問題になりませんでした。使徒行伝十五章は、異邦人教会を悩ましたある問題が、エルサレム母教会の長老たちと使徒たちによって討議され、その決定は全教会を束縛するものであると考えられた、と語っています。実に使徒行伝十五章の教えるところは、無教派、単立教会に向かって叫ばれているのです。(邦訳pp.36-37)

 極端な教派主義がキリスト教会の霊的一致を、うす暗いますの下におき、教会の栄光の輝きを少なからず暗くしていることは、議論の余地がありません。それは実際、罪あることです。(邦訳p.37)

 キリスト教会内の、この分離の態度は文句なく、定罪されなければなりません。(邦訳p.37)

極端な合同主義

 極端な教派主義の正反対が、極端な合同主義です。これは、ローマ・カトリック教会と、現代の近代主義諸教会によって、主張されています。(邦訳p.37)

 ローマ・カトリックは、ただ一つの教会があるべきであると言うだけではなく、実際に唯一の教会が存在するという立場をとります。その一つの教会とは、ローマ教会自身です。いわゆる他のすべての教会は、全くその名に価いしないものであり、かれらは真の教会からの分離を悔いて立ち帰らねばならない、と言います。(邦訳p.37)

 近代主義者の合同論は、ローマ的強要と大差はありませんが、動機は異なります。ローマの主張の背後には、ローマは真理の独占権をもっているという、とんでもない仮定がありますが、近代主義者の主張の背後には、諸教派間の教理的相違などは、取るに足らない、教理は大した問題ではない、という全く不まじめな考え方が潜んでいます。真理に対する無関心は、現代における近代主義的教会合同運動の、最も顕著な特徴の一つです。背後にある神学的不一致を忘れさって、社会的不正の浄化と世界の福音化の協同運動のために、諸教会は溶け合うべきである、と言います。(邦訳p.37)

 このような議論の愚かしさは大きく、かつ明白です。神の言葉に従えば、キリストの教会は「真理の柱・真理の基礎」(Ⅰテモテ三15)です。教会は真理の管理者、擁護者です。教会が組織的一致のために払う代価としては、真理は余りにも尊いものです。たとえ、その代価でもって、完全な組織的一致に達したとしても、教会は自滅することになるだけでしょう。なぜなら、真理の存するところに教会は存し、キリストの神性や代償的贖罪としての十字架の死といった真理を、売り渡す教会は〈サタンの会堂〉でなくてなんでしょう(黙二9)。(邦訳pp.37-38)

 自由主義的教会合同運動の指導者たちの幾人かは、キリストの教会を破壊することによって、それを一つにしようとしました。(邦訳p.38)

 黙示録十三章は、小羊のいのちの書にその名がしるされていない、地に住むすべての者は、海から上がって来た獣を拝むであろうと、語っています(黙一三8)。その預言の成就には、おそらく幾段階もあることでしょう。しかし疑いもない最後の段階は、反キリストのもとに全人類の宗教を統一することでしょう。今日の勝ち誇った、しかし妥協的な合同主義が、その出来事を早めるのに役立っているのは決定的です。(邦訳p.38)

 極端な教派主義も合同主義も、キリスト教会内の分離に対する救治策になりません。前者は救治に関心を抱いていませんし、その疾患を手に負えないものにすることになりましょう。後者は、その病いをこえた致命的な救治策を提供しています。私たちには、救治策はないのでしょうか。その解答は、次章にゆずります。(邦訳p.38)

 ところで、キリスト教会の霊的一致が現実であり続けることは、今も覚えられなければなりません。現存する分離は、教会の一致をおぼろげにしていますが、それを破壊してはいません。極端な教派主義は分離を促して、かつてないほどに教会の一致をおぼろげにしていますが、それを破壊することはできません。極端な合同主義は、教会の破滅を意味しますが、教会にしろ、その一致にしろ、快して実際に破壊することは許されないでしょう。(邦訳p.38)

 神の右におられる教会の栄光の主、全能のかしらキリスト・イエスが、教会の存続を保証しておられます。教会の一致の存続は、教会そのものの存続と一つに結ばれています。一致は、キリストのからだの本質であるからです。(邦訳p.38)

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