Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 7

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 7
【関心・疑問】

【論文名】
第七章 理想としての見える一致

【著者名】
Rienk Bouke Kuiper (山崎 順治訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
The Glorious Body of Christ: A Scriptural Appreciation of the One Holy Scripture, Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans, 1958
(『聖書の教会観――キリストの栄光のからだ』東京: 小峯書店, 1972年, pp.39-43)

【本文の構成】
現実的理想主義
理想的現実主義

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
現実的理想主義

 キリストの教会は、その内面的実在と同様に、理想的には外見上も一つになるべきであるということは、否定できません。その意味で、初代教会に似るべきです。その教会は、後の代の教会の模範としての意義をもっています。キリストが、あの執り成しの祈りの中で、信徒の霊的一致を祈られたとき、その一致の外面的顕示も覚えておられたはずです。「あなたが、わたしをつかわされたことを、世が信ずるように」と言われたからです(ヨハネ一七21)。可見性と不可見性とは、一つ教会の二面ですから、見える教会は、不可見性という属性は別としても、見えない教会の属性を具現しなければなりません。見えない教会の最も光栄ある属性の一つがその一致にあることは、言うまでもありません。見える教会がその属性を現わしていないという意味で、外見的な姿は内面的実在を裏切っています。(邦訳p.39)

 従って、神が定められた自然的要因から生まれたものである限りその教派は正しいという、正統派陣営を長年支配してきた考えは、拒否されなければなりません。クリスチャンがそれぞれ異なった国語を話すということは、異なった教派に分かれ住む言いわけとしては、貧弱過ぎます。事実、数か国語を使っている教派があります。どうして、一つ交わりの中で多くの国語が使われてはいけないのか、わかりません。また、かつて地理的条件が教派存立の正当な根拠であったとしても、今日の即時的コミュニケーションの時代においては、そのように考えられません。パウロ時代におけるエルサレムとローマの間は、今日のニューヨーク・上海間とは比較にならない距離です。人種の違いについては、キリストにあってはギリシア人もユダヤ人もなく、未開人も文明人もなく、白人も黒人もないということを、思い起こすだけで足りるでしょう。(邦訳p.39)

 理想は、はっきりしています。しかしながら、キリスト教会内の分離の根本原因すなわち罪が、これまでと同様、今日も、そしてこれからも有力に働き続けることは、疑う余地がありません。このような現実と真っこうから対決するということは、はたはだやっかいなことです。そうする者は、控え目に言っても、主の再臨までにいつか一つ教会が起こることなど、考えられないでしょう。この地上で、一つ教会を期待することは、保証されていない新天新地の待望であると言っても過言ではありません。(邦訳pp.39-40)

理想的現実主義

 そうすると、私たちは理想を捨てなければならないのでしょうか。決してそうではありません。達することのできないものに向かって努力するのが、キリスト教の本質というものです。この世においては、道徳的完全の目標に到達しないことを十分に知りながらも、クリスチャンはその目標を目ざして、全力を尽くして走らなければなりません。同じように、かしらであられる主が来られるまで分かれたままであると確信していても、教会はその分裂の回復のために絶えず労苦すべきです。教会合同運動について言えば、私たちは、理想主義をたけり狂わせるべきでないのは確かですが、現実主義を、何もせずに突っ立っていることの弁明にしてはなりません。私たちの理想主義が現実主義的であることをわきまえるべきであると同時に、私たちの現実主義は、理想主義的であることが重要なことも忘れるべきではありません。(邦訳p.40)

 どうしたら、キリスト教会の見える一致の理想に向かって、足が地についた努力ができるかという問題について、二、三の提案をしておきましょう。(邦訳p.40)

 第一に、私たちは、ある自己流のキリスト教会を、キリストの教会として認めることを拒む勇気をもつべきです。真のキリスト教教派は、基本的なキリスト教真理を公然と否定しているような自称教会を、背教者と断ずべきです。このことが軽率に、少なくともパリサイ的に行なわれるべきでないのはいうまでもありません。ユニテリアン主義が三位一体の神を否定することによって、キリスト教の名に価いしないとすれば、キリストの本質的神性、処女降誕やからだのよみがえりという超自然的な出来事を否定している、近代主義の支配を喜び勇んで受け入れている教会が、どうしてキリスト教と呼ばれる権利があるでしょうか。そのような教会は、偽りの教会と呼ばれるべきですし、キリスト教のわくの外にあると断言されねばなりません。そうされたならば、見える教会の統一にとって、最大のつまずきの一つが除かれるでしょう。なぜなら、神学的自由主義は、世界教会、教会合同を自ら叫びながらも、他の何にもまさって有力に、キリスト教会の分裂に貢献しているからです。(邦訳p.40)

 第二に、自由主義が侵入はしているものの、まだこのキリスト教の敵に征服されていない教派は、直ちに教理的論争に注目すべきです。もしそうしているなら、この国のほとんどすべての教派が現在、論争に懸命なはずです。その中の多くは、ずっと前に分かたれていたでしょう。しかし、そのようなことは、見える教会が万が一にも統一された姿を示すことがあっても、必ず生じることです。平和の君が、わたしの来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣を投げこむためであると宣言されたとき(マタイ一〇34)、真の平和がもたらされる唯一の方法は、偽りの平和を破壊することによってであるという事実を、心に描いておられたのです。ほとんど例外なく、今日の教派は偽りの平和を楽しんでいるか、楽しもうとしています。真理と虚偽とは手をとり合って歩いています。過誤を犯している教会員に、正当な悔い改めの機会が与えられなければならないのは確かです。けれども、断固、虚偽は罪に定められ、真理が固持されるべきですから、虚偽と真理のそれぞれの支持者たちは、交わりを断つことになるでしょう。このことは、分離、真実の一致にとって欠くことのできない分離を意味することになります。(邦訳p.41)

 第三に、保守主義者も自分たちが罪を犯しており、キリストのからだの見える一致を傷つけていることを、率直に告白しなければなりません。その罪は、多くの形をとっています。多くの場合は、神の言葉の前に、従順に腰をかがめなかったことに根ざしていました。聖書を神のことばとして公然と認めておきながら、究極的な聖書解釈者として聖書そのものの代わりに、しばしば人間理性をたてました。たとえば、神の主権と人間の責任とは、神の言葉によって誤りようがないほど、はっきり教えられており、人間の責任を神の主権に一致させる努力を、理性に向かって決然とすべきですのに、聖書信者と認めてもらいたがっている多くの人が、神の主権と人間の責任とを共に加減せずに受けいれようとはしないで、神の主権をひどくそこないました。ある者たちは、逆に神の主権を人間の責任に合わせる誤りを犯しています。このような合理主義によって、見える教会は引き裂かれました。また、保守主義者が、人間的伝承を神の啓示と同等のものとすることは、珍しくありません。そのようにして、聖書の十全性を否定するのは、何もイエス時代のパリサイ人やローマ・カトリック教会に限りません。教会員は十戒でなく、十一戒、十二戒に従って生きるという、まじめくさったクリスチャンの主張によって、プロテスタント教会は分裂しました。敬けんという徳が、偽善という悪徳に堕落していると言われるのは、このことです。同時に、分派主義の罪も醜い頭をもたげました。神の言葉によれば〈アディアホラ〉の問題、すなわち神が禁じても命じてもおられない一般的事柄で、教会を分かつのが分派の本質です。繰り返しますが、聖書のすべての教えを、有機的に均衡をもって主張することに失敗し、その結果、他のすべての部分を無視して、その中の一、二のことを強調する誤りが、キリストの教会の見える一致をしばしば破壊して来ました。神学的道楽にふけることは、決して罪のない娯楽ではありません。このような罪について、悔い改めなければならない教会が到るところにあります。(邦訳pp.41-42)

 第四に、聖書を無条件に神の誤りない言葉として受け入れ、三位一体の神、キリストの永遠の御子であること、聖霊の神性と人格性、代償的贖罪、恩恵的救い、主イエス・キリストの人格的な可見的再臨、からだの復活、信者と不信者の永遠的分離といった、これらの聖書の基本的教理を受けいれていますが、基本的でないにしても重要な他の教えの解釈に関して、明らかに異なっている諸教会は、互いに学びとろうとすべきです。また、できる限り協働すべきです。聖書の配布やラジオ、テレビを含む通信手段によって、国の内外に福音を宣べ伝えるという、神から賜わった、従って譲ることのできない教会の権利を断固として主張することに、どうして彼らが協働してはいけないと言えるでしょうか。このような線に沿った提携の努力は、それに従事する諸教会の活動を促進するばかりでなく、かれらが本質的に一つであることを具現することにもなるでしょう。(邦訳p.42)

 最後に、自らの確信を互いに妥協させなくとも合併できるほど、神の言葉の解釈において一致しておるキリスト教諸教派があります。ためらうことなく、組織的な統合は彼らの義務であると言えます。彼らにとって、分かれたままでおることは罪です。例えば、合衆国北部にある保守的バプテスト教会と、南部にある同じように保守的なバプテスト教会とが、別々の教派として存在しておることを是認できる理由は、見当たりません。また、疑いもなく教理において真の改革派、政治において真の長老派である改革派諸教会と長老派諸教会とは、有機的な合同に向かって前進すべきですし、そうして、キリスト教会の見える一致という理想を実現するために、価値ある貢献をなすべきです。一九四六年に、世界改革派教会会議(RES)が設立されたことは、その方向に向かっての注目すべき一歩でした。それがまさに第一歩であったと、未来があかししてくれるのを期待しています。(邦訳p.42)

 真理を犠牲にしないで、キリストのからだの見える一致のために努力することは、その栄光の輝きをいや増すことになるでしょう。(邦訳p.43)

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