Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 9

Rienk Bouke Kuiper The Glorious Body of Christ 9
【関心・疑問】

【論文名】
第九章 公同性

【著者名】
Rienk Bouke Kuiper (山崎 順治訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
The Glorious Body of Christ: A Scriptural Appreciation of the One Holy Scripture, Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans, 1958
(『聖書の教会観――キリストの栄光のからだ』東京: 小峯書店, 1972年, pp.48-52)

【本文の構成】
流布している誤解
旧約における予表
新約における実現
実践的な適用

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 ある辞書によると、公同性は「世界的な普及・採用、普遍性」と定義されています。キリスト教会は真実、普遍的であり、その普遍性はキリスト教会の栄光の顕著な一面です。(邦訳p.48)

流布している誤解

 教会の公同性がしばしば誤解されているのは残念なことです。特に二つの誤解が流布しています。それを余りにも狭く考える者が一方におれば、他方には余りにも広く考える者がいます。(邦訳p.48)

 ローマ教会は、自らカトリック(公同的)教会と称しています。自らに公同性を要求することによって、他のすべての教会を普遍的教会からしめ出しています。この見解によると、教会の普遍性はローマ教会の外には広がらないことになります。それは全く制限された普遍性となります。(邦訳p.48)

 反対に、多くのプロテスタントは、キリスト教会の公同性について余りにも締まりのない見解をとります。かれらは、教会と自称するいかなる団体をも、ことごとく普遍的な教会の肢体であると認めます。それはローマ教会とは正反対の極端であり、まさるとも劣らぬ誤りです。教会員の中に、そして多分、牧師の中にも、三位一体の神を否定したり、キリストの神性を否定する者を容認している群れは、明らかにキリスト教会に数えられる栄誉を失っています。それは〈偽〉教会です。この事実は、自由主義的なエキュメニカル運動の指導者たちによって看過されたり、否定されたりしています。それからまた、実際には単なる分派に過ぎない自己流の教会があります。教会と分派は区別しにくいことかも知れませんが、聖書の光に照らして考えれば取るに足らない理由で新しい教派が作られるとき、分派の罪が犯され、そこに生まれたものは教会でなく分派です。ベルギー信条の警告は、今日も生きています。「われらは、つとめてまた周到に真の教会はなんであるかを、神の言から認識しなければならないと信じる。というのは、今日、世界にあるすべての分派がこの教会の名をもっているからである」(第二九条・新教出版社刊・キリスト教古典選書、信条集前篇三五〇頁)。(p.48)

旧約における予表

 キリスト教会の公同性に正しくおもむかせるためには、人は旧約時代の教会と新約時代の教会とを比較しなければなりません。旧約時代の教会はイスラエルの民に限定され、その範囲は民族的であって普遍的ではないと、よく言われます。大体のところ、それが真実であることは否定できません。神は、アブラハムとその子孫とに、恩恵の契約をたてられました。「主はそのみ言葉をヤコブに示し、そのもろもろの定めと、おきてとをイスラエルに示される。主はいずれの国民をも、このようにあしらわれなかった。彼らは主のもろもろのおきてを知らない。主をほめたたえよ」(詩篇一四七19-20)。(邦訳p.49)

 しかしながら、それは決して事のすべてではありません。旧約聖書は、来たるべき万国性、普遍性の預言と約束だけでなく、その成就の予表で満ちみちています。アブラハムが特選の民の父となるために、神が彼を異教的環境から召し出されたそのときに、神は言われました。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と(創一二3)。民族主義は、決してそれ自体が目標ではなく、始めから万国性、普遍性という目標に至る手段でした。詩篇七二篇はメシアの普遍的支配を歌う多くの聖句の一つです。「彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治めるように」(詩篇七二8)。福音の預言者イザヤによって、神は普遍的な招きをしておられます。「地の異なるもろもろの人よ。わたしを仰ぎのぞめ。そうすれば救われる」(イザヤ四五22)。神の命令で、預言者ヨナは異教の都ニネベに向かって悔い改めの福音を宣べ伝えました。エリコの遊女ラハブとシリヤの将軍ナアマン、それにモアブの女性ルツは、異教からまことの生ける神に立ち帰りました。(邦訳p.49)

新約における実現

 しかし、キリスト教会の普遍性が十分な実現をみるのは新約時代においてです。(邦訳p.49)

 主イエスの公生涯の終り近く、あるギリシア人が主にお会いしたいと願った時、主イエスは深く感動して「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところにひきよせるであろう」と言われました(ヨハネ一二32)。主は、そのことを十字架の死と関係づけて言われたのです。主はオリブ山から天にかえられる時、弟子たちに命じられました、「エルサレムユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と(行伝一8)。ペンテコステの日、「天下のあらゆる国々から」来た人々がエルサレムにいました。多くの者が回宗し、バプテスマを受けてキリスト教会に加えられました。エチオピヤの高官はピリポの教えによって回心し、ローマの百卒長コルネリオはペテロの説教によって家族と共に回心しました。とりわけ重要なことは、パウロが異邦人世界にまで福音を伝える神の選びの器とせられたことです。使徒行伝は、ユダヤ人の都エルサレムから世界の都ローマに至るまでの、福音の勝利に輝く行進を物語っています。(邦訳pp.49-50)

 いわば、新約時代において、キリスト教会は民族性の垣を完全に押し破って、全世界にあふれ出たのです。キリストの再臨のときまで、福音は世界中の民に宣べ伝えられるでしょう。天において、あがなわれた者は小羊の栄光をたたえます。「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない……」と(黙示録五9)。(邦訳p.50)

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