Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

G. K. Chesterton Orthodoxy III

G. K. Chesterton Orthodoxy III
【関心・疑問】

【論文名】
3 思想の自殺

【著者名】
G. K. Chesterton (安西 徹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.233-248
(『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.43-70)

【本文の構成】
1 本書以外のあらゆる物のための弁明
2 脳病院からの出発
3 思想の自殺
4 おとぎの国の倫理学
5 世界の旗
6 キリスト教の逆説
7 永遠の革命
8 正統のロマンス
9 権威と冒険

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 その危険とは何か。人間の知性には自己破壊の力があるということだ。もしある一つの世代が、すべて修道院に入るか海に飛びこんだとしたならば、次の世代はついに存在さえしなくなるだろうが、同じように、ある一群の思想家が次の世代に向かって、人間の思考にはまったく何の意味もないのだと教えこんだとしたならば、結局人類がそれ以上物を考えるのをやめてしまうということもありえないことではない。いつもいつも、理性か信仰か、どちらを取るかなどと言って暮らすのは愚論もいいところであろう。理性そのものが信仰の問題だからである。われわれの思考が現実と何らかの関係を持つと信じること自体、一つの信仰のわざにほかならないからだ。もしいやしくも懐疑に徹したなら、やがては当然この問題につき当たる。「この世に何事かただ一つでも正しいものがありうるのか。観察も推論もあてにはならぬ。正しい論理も誤てる論理も、正しい結論に達しえぬ点では同じではないか。ともに狼狽した類人猿の脳髄の自己運動にすぎぬではないか。」新米の懐疑家は言うかもしれぬ、「私には一人で考える権利がある」と。だが年古りさびた懐疑家、徹底した懐疑家は言うにちがいない、「私には一人で考える権利はない。私にはそもそも物を考える権利など一切ない」と。(p.236; 邦訳pp.49-50)

 思想を破壊する思想がある。もし破壊されねばならぬ思想があるとすれば、まずこの思想こそ破壊されねばならぬ思想だ。これこそ究極の悪であり、あらゆる宗教的権威はこの悪と対決することを目的としたのである。この種の悪が現われるのは、今日のような退廃の時代の末期にかぎられる。そしてすでにH・G・ウェルズ氏は、この破滅の旗印を高く掲げている。「道具にたいする懐疑」と題して、彼は精妙な懐疑論を書いている。この中で彼は頭脳そのものを疑問視し、過去、現在、未来を通じて、彼自身のあらゆる主張から一切の現実性を払拭しようと懸命なのだ。だが、本来この遠大な破壊から人類を護るためにこそ、戦う教会の戦列はすべて組まれ統(す)べられてきたのである。十字架も十字軍も教会の位階の組織も、あるいは宗教裁判や迫害の恐怖も、その本来の目的は、無知な世間が言うように理性の抑圧にあったのではけっしてない。すべて、理性を守るという困難きわまる事業を目的として設けられたのだ。人びとは本能的に悟っていたのだ、もしやみくもに万事を疑うとするならば、まず疑われるのが理性であることを。告解によって罪を許す神父の権威も、その権威を定める教皇の権威も、あるいは宗教裁判官の脅迫の権威さえ、すべてみな、中心となる一つの権威を守るために立てられた影の城壁であったのだ。何物にもまして証明しがたい権威、何物にもまして超自然的な一つの権威、つまり人間の「考える」という権威を守る楯だったのである。今日われわれはこのことを知っている。知らぬという言い訳は通用しない。なぜなら今日、懐疑の軍勢が古来の権威の城壁を押し破り、理性の玉座が危うく揺れていることは誰の目にも明らかであるからだ。宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。どちらも共に、それ自身は証明しえない証明の手段である。そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。この観念がなければ、われわれには割算をすることさえできなくなる。われわれは長い間懸命の努力をつづけて、ようやく教皇の頭から帽子を引き抜いた――と思ったとたん、実はその首まで引っこ抜いてしまっていたということか。(pp.236-237; 邦訳pp.50-51)

 こんな言い草はすべて無責任な放言だと思われるむきもあるかもしれぬ。念のために、当代流行の現代思想を大急ぎでおさらいしてみよう。みな、思想そのものを破壊する思想ばかりである。第一に唯物論。それに、あらゆるものは個人の見る幻影にすぎぬと考える不可知論。両者とも同じく思想破壊の結果を生む。というのも、もし精神さえも物質にすぎぬとすれば、思想は別に面白くも何ともなくなるはずであるし、また、もし宇宙が非現実にすぎぬとすれば、そもそも思考の材料さえなくなってしまうからだ。しかしこういう場合には、その結果は間接的で、決定的ではない。だが直接、決定的に思想を破壊する場合がある。特にいわゆる進化論の場合にそれが著しい。(p.237; 邦訳pp.51-52)

 私の論点がまだよく呑みこめぬというかたがたのために、今度は歴史上の実例を借りて説明してみてもよい。フランス革命が本当に英雄的で決然たるものとなりえたのは、ジャコバン党が明確で限定された目的を意図していたからである。彼らは民主主義の自由を求めたが、同時に民主主義の禁制をすべて求めることも忘れなかった。彼らは投票権を求めたが爵位を求めはしなかった。共和主義には、ダントンやウィルクスに見られる解放の側面と同時に、フランクリンやロベスピエールに見られる禁欲的側面も持っていたのだ。だからこそ彼らは、明確な実体と輪郭を持った成果を作り出すことができたのだ。つまり、公明にして正大な社会的平等と、フランス農民の経済的繁栄という成果である。しかしそれ以後というものは、ヨーロッパの革命思想は衰弱し、なんらの具体的な事業も提唱していない。どんな具体的な事業にも限定があるが、彼らはその限定から尻ごみしているからである。自由主義は自由放任主義に堕落し去った。「革命する」という動詞を、本来の他動詞から自動詞に変えようとしてきたのだ。ジャコバン党は、みずからが反逆しようとするその当の相手の体制を明確に示したばかりではない。もっと重要なことだが、みずからが反逆しようとはしていない体制、みずからの信ずる体系を明らかにもした。ところが新しい反逆者の連中は懐疑家であり、何事も完全に信ずるものは一つとしてない。彼らは何事にたいしても忠誠を持たず、したがって真の革命家となることはたえてできない。あらゆるものを懐疑するという事実自体、何事かを否定しようとする時その障害となるのだ。なぜならば、あらゆる否定は何らかの道徳体系を必要とする。ところが現代の革命家は、みずからが否定する相手の体制を否定するばかりではなく、その否定の根拠となるべき価値体系そのものまで否定するからだ。たとえば彼らは、女性蔑視は女性の純潔にたいする侮辱だと攻撃しながら、他方ではセックスの自由を主張して、みずから女性の純潔を侮辱する。一方ではハーレムを攻撃し、娘どもが身を売ることを非難しながら、他方では口やかましい世間を攻撃し、娘どもが身を守ると言って非難するというわけだ。政治家としては、戦争は生命の浪費だと声を大にして糾弾しながら、哲学者としては、すべて生命は時間の浪費だと糾弾して平然としている。あるいはたとえばロシアのペシミストは、警官が百姓を虐殺したと言って憤然としておきながら、一方深遠きわまる哲学的原理から推論して、その百姓はもともと自殺してしかるべきだったなどと宣う次第である。結婚などはすべからく反故にすべしと言った口の下から、今度はまた、ご乱行の貴族が結婚を反故にするのはけしからんと憤激する。国旗などは子供だましの玩具と言った舌の根も乾かぬうちに、ポーランドアイルランドを植民地にするのはもっての外、ただちに住民に国旗を返せと息まくという始末。この派の連中の前後矛盾ぶりたるや、朝(あした)に政治集会に参加して、未開人が野獣にひとしい扱いを受けていると非を鳴らし、さて夕(ゆうべ)には山高帽にコウモリ傘をたずさえて科学講演会に出席し、未開人は事実上野獣にひとしいことを立証するという有様である。要するに現代の革命家の先生がたは、底知れぬ懐疑家であるからして、いつでも自分の立場の足場を自分で打ち壊すことに躍起になっているのである。政治論では、人間が道徳を踏みつけにしていると攻撃しながら、倫理論では、道徳が人間を踏みつけにしていると攻撃する。だから現代の反逆者は、実際あらゆる意味で反逆者の用をなさなくなっている。あらゆるものに反逆することで、何らかのものに反逆する権利まで失ってしまっているのだ。(pp.244-245; 邦訳pp.63-65)

 もう一つ付け加えておこう。今日では、雄々しく恐るべきタイプの文学、殊に諷刺にも、この同じ虚無と破産が認められる。諷刺は時に狂おしくアナーキックになることもある。しかしその前提には、物の上下についてある共通の基準がなければならない。往来の悪童どもが、ある高名なジャーナリストの太鼓腹を笑う時、彼らは無意識にギリシア彫刻を基準にしているのである。大理石のアポロと引きくらべて笑っているのだ。今日の文学から不思議に諷刺が姿を消したのも、ほかでもない、雄々しく戦うべき原理がなくなって、雄々しい行動一般が姿を消したその一例なのである。ニーチェには、生まれながらの嘲弄の才能があったらしい。哄笑することはできなくても、冷笑することはできたのだ。しかし彼の諷刺には、何か肉体を欠いた、実体感のなさとも言うべきものがある。その理由は単純である。要するに彼の諷刺の背後には、世間一般の道徳という巨大な実体が存在しないからである。彼自身が、彼の攻撃した何物にもまして馬鹿馬鹿しいのだ。しかしながらニーチェは、実際、実体を持たぬ観念的暴力主義全体の失敗を、いかにも端的に代表する典型と言っていいだろう。彼は晩年脳軟化症にとりつかれたが、これは単なる肉体的な偶発事ではない。かりにニーチェ自身が痴呆症に陥らなかったとしても、ニーチェ主義はかならずや痴呆症に陥るほかはないからだ。孤立した傲慢な思考は白痴に終わる。柔かい心を持とうとせぬ者は、ついには柔かい脳を持つことに到りつくのである。(pp.245-246; 邦訳pp.65-66)

 こうして、主知主義を脱出しようとする最後の足掻きも、結局あえなく主知主義に到りつき、したがって死に終わる。包囲突破作戦は失敗に帰したのである。無法を崇拝するアナーキズムも、法則を崇拝する唯物的論決定論も、同じ虚無に終着するのだ。ニーチェは目もくらむ山々によじ登って、結局チベットに姿を現わす。この無と涅槃の国に到着して、彼はトルストイの傍に腰を下すのだ。二人の巨人はともにまったく途方に暮れている。一人は何物にも取りすがってはならぬために、一人は何物も取り逃がしてはならぬために、二人は何物もなすところを知らぬのである。トルストイの意志を凍結させているのは、何らかの行動を起こすことはすべて悪だという仏教的本能である。ニーチェの意志を同様にまったく凍結させているのは、何らかの行動を起こすことはすべて善だという彼の思想である。二人は十字路に立っている。一人はあらゆる道を憎み、一人はあらゆる道を好む。その結果はどうなるか。それを想像するのはそうむずかしくはない。読者のご想像にまかせよう。要するに十字路で途方に暮れたのだ。(p.246; 邦訳pp.66-67)

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