Five Solas Ministry

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Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 5

Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 5
【関心・疑問】

【論文名】
第5章 致命的な思いあがり

【著者名】
Friedrich August Hayek (渡辺 幹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
W. W. Bartley III (ed.), The Fatal Conceit: The Errors of Socialism, The Collected Works of Friedrich August Hayek; v. 1, London: Routledge, 1988, pp.66-88
(『致命的な思いあがり』ハイエク全集; 第2期第1巻, 東京: 春秋社, 2009年, pp.97-131)

【本文の構成】
序論 社会主義は間違いだったのか?
第1章 本能と理性のあいだ
第2章 自由、所有、そして正義の起源
第3章 市場の進化――交易と文明
第4章 本能と理性の反逆
第5章 致命的な思いあがり
 1 伝統的な道徳は合理的な要求事項を満たさない
 2 伝統的な道徳の正当化と修正
 3 事実についての知識による手引きの限界、道徳の効果を見きわめることの不可能性
 4 不特定の目的――拡張した秩序においては、行動の目標はたいてい意識的でも計画的でもない
 5 未知なるものの秩序化
 6 知りえぬものを計画しえぬのはどうしてか
第6章 交易と貨幣の神秘的な世界
第7章 われわれの毒された言語
第8章 拡張した秩序と人口増加
第9章 宗教、伝統の守護者
補遺A 「自然的」対「人工的」
補遺B 人間の相互作用の諸問題の複雑さ
補遺C 時間、構造の発生と複製
補遺D 疎外、落伍者、寄生者の要求
補遺E 遊戯、ルールの学校
補遺F 人口の経済学・人類学についての覚えがき
補遺G 迷信、伝統の保存

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 しかし、社会主義の七〇年の経験をへても臆することなくこういえる。すなわち、社会主義が試行されていた地域――東欧と第三世界――の外にいるほとんどの知識人は、依然として経済学のなかにははたしてどんな教訓があるのかを考えもせずに満足していて、もしかしたら、社会主義が試されるたびに、けっしてその知的リーダーたちの意図したようにうまくいくように見えないのには理由があるのではないかと疑ってみようともしないのである。真に社会主義的なコミュニティを求める知識人たちのむなしい探求は、あたかも際限なくつづく「ユートピア」――ソビエト連邦、次いでキューバ、中国、ユーゴスラビアベトナムタンザニアニカラグア――の理想化、さらに幻滅に終わるのであるが、それが示唆するのは、社会主義には一定の事実に合致しないところがあるのかもしれないということのはずである。しかし、歴史的文脈を超えたり、人間の欲求にとって克服しがたい障害を呈したりするいくつかの事実がありうるという考えを合理主義的に否定することに誇りをもつ人びとは、経済学者が一世紀以上も前にはじめて説明したその種の事実をいまだ吟味しないでいるのである。(pp.85-86; 邦訳pp.125-126)

(1) いま私が論じたことが科学にもあてはまるということは、科学哲学内部での最近の進展や論争に通暁していない人にとってはなじみがないかもしれない。しかし実際、現在の科学法則は設計主義的方法論者たちの要求するようには正当化されず、また正当化できないことは事実であるばかりか、最終的には、現在の科学的推測の多くが真ではないことをわれわれが知るようになると想定する理由のあることも、また事実なのである。そればかりか、以前に信じていたのよりも成功的な案内役であるどんな構想も、大きな進歩とはいえ、実質的にはこれまでのものと同じく間違いであるかもしれないのだ。カール・ポパーからすでに学んだように(Popper, 1934/59)、目標は可及的速やかに連続して過ちを犯すことであるほかないのである。一方、もしも真であることを証明できない現在のすべての推測を破棄すべきであるとすれば、われわれは早晩おのれの本能だけを信ずる未開人のレベルに逆戻りするであろう。しかしこれこそ、デカルト的合理主義から現代の実証主義にいたるまでの、すべての科学主義が推奨してきたことなのである。(p.68; 邦訳pp.129-130)

【コメント】
 キリスト者は聖書的なものと非聖書的なものを識別することを求められている。その上で、聖書に反する部分は受け入れない一方で、反しない部分については、相手の立場を考慮しつつ、検討すべきであろう。
 ハイエクは、道徳、慣習、法、市場、言語といった社会的な制度について、本能によってもたらされたものではなく、また理性によって作為されたものでもなく、長い歴史の中で徐々に自生的に進化し、成ったものであると考える。この点に関しては受け入れることは出来ない。
 とはいえ、ハイエクの学説全体を遮断し、無視すべきではない。社会主義福祉国家の路線の誤りが明白になった今、聖書的な経済政策とは何かを考えるにあたって、ミーゼスやハイエクといったオーストリア学派の経済思想から学ぶべきことは多い。