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Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 4

Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 4
【関心・疑問】

【論文名】
第4章 本能と理性の反逆

【著者名】
Friedrich August Hayek (渡辺 幹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
W. W. Bartley III (ed.), The Fatal Conceit: The Errors of Socialism, The Collected Works of Friedrich August Hayek; v. 1, London: Routledge, 1988, pp.48-65
(『致命的な思いあがり』ハイエク全集; 第2期第1巻, 東京: 春秋社, 2009年, pp.69-95)

【本文の構成】
序論 社会主義は間違いだったのか?
第1章 本能と理性のあいだ
第2章 自由、所有、そして正義の起源
第3章 市場の進化――交易と文明
第4章 本能と理性の反逆
 1 所有への挑戦
 2 二〇世紀の知識人、その理性的な社会主義の伝統
 3 道徳と理性――いくつかの事例
 4 誤りの連祷
 5 積極的自由と消極的自由
 6 「解放」と秩序
第5章 致命的な思いあがり
第6章 交易と貨幣の神秘的な世界
第7章 われわれの毒された言語
第8章 拡張した秩序と人口増加
第9章 宗教、伝統の守護者
補遺A 「自然的」対「人工的」
補遺B 人間の相互作用の諸問題の複雑さ
補遺C 時間、構造の発生と複製
補遺D 疎外、落伍者、寄生者の要求
補遺E 遊戯、ルールの学校
補遺F 人口の経済学・人類学についての覚えがき
補遺G 迷信、伝統の保存

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 この見解のもつ広く認められた大きな魅惑的な魔力は、その力を(それがなにを主張しようとも)理性や証拠から得ているのではない。すでに見たとおり、未開人は少しも自由ではなかった。また、世界を征服できたはずもない。それどころか、かれは自分の属するグループ全体の同意がなければほとんどなにもすることができなかった。個人的決定は個人的な管理の領域を前提としている。それゆえ、それは個別的所有の進化をもってはじめて可能になったのであり、ひるがえってその発展は、首長や族長、あるいはその集団の認識を超えた拡張した秩序の成長の基礎を敷いたのである。(p.50; 邦訳p.72)

 というのも、私の主張の基本的な論点は、道徳というものは、とりわけ所有、自由そして正義にかんする諸制度を含めて理性の創造物ではなく、文化的進化によって与えられた第二の独立した資性である、ということだからである。それは二〇世紀の主要な知的見解と対立している。合理主義の影響は実際とても深遠で広範だったから、一般に教養のある人は、知的になればなるほどますます合理主義者である可能性が高く、またそれのみならず、ますます社会主義的な見解を抱くようにもなるようである(かれないし彼女が、自分自身の見解に「社会主義的」も含めてなんらかのラベルを貼るほど教条的かどうかは別だが)。知性のはしごを高く上れば上るほど、知識人と話すことがより多くなり、社会主義的な信念に遭遇する可能性もより高くなる。合理主義者は知的かつ知性的であることが多く、知的な知識人は社会主義者であることが多いのである(2)。(pp.52-53; 邦訳pp.75-76)

 知的な人たちには社会主義者が多いことに気づいたときの最初の驚きは、次のことを理解すれば小さくなろう。すなわち、当然ながら知的な人びとは、知性を過大評価することが多く、文明の与えるすべての利益や機会を、伝統的なルールに従うことよりもむしろ計画的な設計に負っているはずだと仮定しがちである。同じく、理性を働かせることで、もっと知的な省察によって、またわれわれの企てのもっと適切な設計と「合理的な調整」によって、いまだ残る望ましくない特性を除去することができると仮定しがちなのである。これによって人は、社会主義の核心にある経済の中央計画化と管理に好意的な態度を示すようになる。もちろん、知識人は自分たちが実行を期待されるすべてのことに説明を要求するであろうし、あれこれの慣行が偶然生まれおちたコミュニティを偶然支配しているというだけの理由でそれらを受けいれることを渋るであろう。そして、これによってかれらは、人口に膾炙した行為のルールを静かに受けいれる人びとと衝突するか、少なくともそのような人びとを低く見ることになるであろう。さらに、かれらはまた当然ながら、科学や理性、そして過去数世紀にわたり物理科学が成しとげた異例の進歩と手を組みたがるであろう。設計主義と科学主義こそが、科学の、そして理性の使用のすべてであると教えられてきたために、かれらは、計画的な実験に発したのではなくてしかも有用な知識が存在しうるとは信じがたい、そして、自分たち自身の理性の伝統とはちがうどんな伝統の妥当性も受け入れがたいと感じるのである。だからこそ、著名な歴史家はこんなふうに書いたのである。すなわち、「伝統はほとんど定義によって非難さるべきで、嘲笑し嘆くべき対象である」(Seton-Watson, 1983: 1270)。(pp.53-54; 邦訳p.76)

 モノーに戻る前にもう少し例を引いておきたい。他のところで論じたが(Hayek, 1978)、とりわけよい例はジョン・メイナード・ケインズである。かれは、伝統的な道徳から解放された世代のもっとも代表的な知的リーダーの一人であった。ケインズは、予見しうる結果を考慮することによって、自分は伝統的な抽象的ルールに従うよりもよい世界を築くことができると信じていた。ケインズは、「慣習的な知恵」というのを嘲笑のためのお気に入りの表現としてつかっていた。そして、啓発的な自伝的説明のなかで(Keynes, 1938/49/72: X, 446)、かれは若き日のケンブリッジ・サークル、つまり、そのメンバーの大半がのちにブルームズベリー・グループの一員となるサークルが、「一般的ルールに従うべき個人的義務を全否定した」のはどうしてか、そして、かれらが「ことばの厳格な意味で不道徳家」であったのはどうしてかを語ったのである。かれは控え目にこう付けくわえていた。五五歳にして、転向するにはもう年をとりすぎた、自分はこのまま不道徳家でいようと。この非凡なる人物はまた、特徴的な仕方で、つまり「長期的にはわれわれはみな死んでしまう」(すなわち、われわれがどんな長期的ダメージを与えるかは問題ではない。重要なのはいまだけ、つまり、世論、需要、投票、そして大衆扇動のためのあらゆる材料や賄賂から成っている、短期のことである)という理由で、自分の経済的見解のいくつかを、そして市場秩序の管理運営にかんする自身の一般的信念を正当化したのであった。「長期的にはわれわれはみな死んでしまう」というスローガンはまた、道徳が長期的な結果、つまり、われわれの可能な認識を超えた結果にかかわることを認めたがらない性向の、そして長期的展望についての学習された規律をはねつける傾向の特徴的な表明でもある(4)。(p.57; 邦訳pp.80-81)

【コメント】
 キリスト者は聖書的なものと非聖書的なものを識別することを求められている。その上で、聖書に反する部分は受け入れない一方で、反しない部分については、相手の立場を考慮しつつ、検討すべきであろう。
 ハイエクは、道徳、慣習、法、市場、言語といった社会的な制度について、本能によってもたらされたものではなく、また理性によって作為されたものでもなく、長い歴史の中で徐々に自生的に進化し、成ったものであると考える。この点に関しては受け入れることは出来ない。
 とはいえ、ハイエクの学説全体を遮断し、無視すべきではない。社会主義福祉国家の路線の誤りが明白になった今、聖書的な経済政策とは何かを考えるにあたって、ミーゼスやハイエクといったオーストリア学派の経済思想から学ぶべきことは多い。