Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Chesterton, Orthodoxy, pp.305-306 (安西訳『正統とは何か』pp.180-181)

G. K. Chesterton, Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.305-306

(安西 徹雄訳『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.180-181)

「これこそ、正統の戦慄に満ちたロマンスにほかならない。正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。ある時はこちらに、ある時はあちらに、大きく身をこごめ、大きく身を揺らせているがごとくに見えながら、実はその姿勢はことごとく、彫像にも似た優美さと、数学にも似た正確さを失わない。初期の教会は、どんな悍馬にたいしても厳然としてたじろがなかった。けれども教会は、低俗な狂信のよくやるように、一つの観念に狂気のごとく固執したというのではない。もしそんな主張をする者があるとすれば、それはまったく歴史上の事実に反するものと言わねばならぬ。教会は右に左に身をかわした。巨大な障害を避けるために、実に正確に手綱をさばいた。一方には、キリストの神性を否定するアリウス派が、見上げるばかりの壁となって行手をふさぎ、あらゆる世俗の勢力の後盾をかさに着て、キリスト教を世俗化しようと待ちかまえていた。教会はみごとにこれを切り抜けた。だがすぐ次の瞬間には、東洋的な神秘主義が行手に現われて、キリスト教を現世からまったくかけ離れたものにしようと道をふさぐ。教会はまたしてもみごとに身をかわす。正統の教会はけっして安易の道を選んだのではない。慣習をそのまま受け入れたのでもない。正統の教会は、しかつめらしい体面に執したことは断じてないのだ。アリウス派の地上権力を受け入れたほうが、はるかに容易なことであったにちがいない。カルヴィニズム全盛の十七世紀には、予定説の底なしの地獄の穴に落ちていたほうが、はるかに容易なことだったにちがいない。狂人となることは容易である。異端者となることも容易である。時節の波の間に間に流されるのは容易なことだ。しかし自説を曲げずに貫きとおすのは容易ではない。時代の尖端を行くことはいつでも容易だ。紳士を気取るのがいつでも容易なのと同じことである。歴史を歩むキリスト教の道筋に、現われては消えて行く流行が仕掛け、現われては消え去る新宗派が仕掛けた錯誤と偏向の罠が口を開けている。その罠に落ちこんでしまっていれば、そのほうがキリスト教にとってどんなに簡単であったろう。落ちることは、いつでも簡単である。落ちこむ斜面は無限にある。立っているその足許に必ず一つ存在する。グノーシス派からクリスチャン・サイエンスに到るまで、無数の流行のどの一つにでも、落ちこむことはそれこそむしろ自然であったし、やさしいことであったろう。けれども、そのすべてを避けきったということは、まさに目も眩むばかりの冒険だったのだ。私の心の目には今ありありと浮かんで見える――天上の戦争は雷鳴のごとき轟音を発して時代から時代へと走り抜け、暗鬱な異端の数々は累々として地にひれ伏し、不羈奔放の真理はよろめきつつも毅然として直立しているその姿が」