Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 1

Friedrich August Hayek The Fatal Conceit 1
【関心・疑問】

【論文名】
第1章 本能と理性のあいだ

【著者名】
Friedrich August Hayek (渡辺 幹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
W. W. Bartley III (ed.), The Fatal Conceit: The Errors of Socialism, The Collected Works of Friedrich August Hayek; v. 1, London: Routledge, 1988, pp.11-28
(『致命的な思いあがり』ハイエク全集; 第2期第1巻, 東京: 春秋社, 2009年, pp.13-38)

【本文の構成】
序論 社会主義は間違いだったのか?
第1章 本能と理性のあいだ
 1 生物学的進化と文化的進化
 2 協同と対立における二つの道徳
 3 自然人は拡張した秩序には不向きである
 4 精神は文化的進化の案内役ではなく所産であり、洞察や理性よりも模倣に基礎をおいている
 5 文化的進化のメカニズムはダーウィニズムではない
第2章 自由、所有、そして正義の起源
第3章 市場の進化――交易と文明
第4章 本能と理性の反逆
第5章 致命的な思いあがり
第6章 交易と貨幣の神秘的な世界
第7章 われわれの毒された言語
第8章 拡張した秩序と人口増加
第9章 宗教、伝統の守護者
補遺A 「自然的」対「人工的」
補遺B 人間の相互作用の諸問題の複雑さ
補遺C 時間、構造の発生と複製
補遺D 疎外、落伍者、寄生者の要求
補遺E 遊戯、ルールの学校
補遺F 人口の経済学・人類学についての覚えがき
補遺G 迷信、伝統の保存

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 というのも、もし現在の秩序がすでに存在しているのではなかったら、われわれもまたそもそもその種のことが可能であるとはとうてい信じられず、それについてのいかなる伝聞も奇跡として、すなわちけっして起こりえぬことの作り話として退けるかもしれない。この非凡な秩序が生みだされたこと、そして人類が現在の規模と構造において存在することの主たる原因は、漸進的に進化してきた人間の行為のルール(とりわけ個別的所有、誠実、契約、交換、交易、競争、利益、そしてプライバシーを扱うルール)にある。これらのルールは本能よりもむしろ伝統、教育、そして模倣によって受けつがれるが、主として変更可能な個人的決定の領域を指示する禁止事項(「汝すべからず」)から成っている。人類は本能の求めることの実行をしばしば禁じ、もはや出来事の共通の認識に依拠しないルールを(まずは縄張りをもつ部族内で、ついでいっそう広い範囲にわたって)発展させ、それに従うことを学ぶことによって文明を達成したのである。このようなルールは結果として新しい異なる道徳を作りあげるが、私は「道徳」ということばをそう限定したいのであって、それは「自然道徳」、すなわち小さなグループを結合させ、その拡大の妨害や阻止を代価として内部での協同を保証していた本能を抑圧ないし制限するのである(1)。(p.12; 邦訳pp.14-15)

 一部は以前に粗描しておいたが(Hayek, 1952/79, 1973, 1976, 1979)、私の見解は単純に要約できる。どう行動するかを学習することは、洞察や理性、そして知性の産物であるよりも、その源泉である。人は賢く、合理的に、そして善く生まれるのではなく、そうなることを教えられなくてはならない。道徳をつくったのはその知性ではなく、むしろその道徳に規制された人間の相互作用が、理性とそれに関連する諸能力の成長を可能にするのである。人間は学習すべき伝統――本能と理性のあいだにあるもの――があったから、知的になったのである。ひるがえって、この伝統は観察事実を合理的に解釈する能力ではなく、それに応答する習慣から生じたのである。まず第一に、それは人にたいして、なにが起こると期待すべきかよりも、むしろ一定の条件下でなにをすべきか、あるいはしないべきかを教えるのである。(pp.21-22; 邦訳pp.26-27)

 本能が習慣や伝統よりも古いのとまさに同じように、後者は理性よりも古い。すなわち、習慣と伝統は本能と理性のあいだに、論理的、心理的、時間的に位置するのである。それらはときに無意識と呼ばれるものにも、直観にも、合理的な知性にもよるのではない。文化的進化の途上で形成されるという点で、習慣や伝統はある意味人間の経験に基礎をおくけれども、それらは一定の事実から、また対象がある特定の仕方で動くことの自覚から推論による結論を引くことで形成されたのではない。われわれはその行為において自身の学習したことに規制されるのだが、しばしば自分がいましていることをなにゆえしているのか分からないのである。学習された道徳ルール、習慣は漸次本能的な反応に置きかわったのであるが、それは人間が理性によってその優位を認識したからではない。それらが何人の視野をも超えた拡張した秩序の成長を可能にしたからであり、そこではより効率的な共同作業によって、いかに盲目的にであっても、そのメンバーはより多くの人びとを養い、他のグループを圧倒することができるからである。(p.23; 邦訳pp.28-29)

【コメント】
 キリスト者は聖書的なものと非聖書的なものを識別することを求められている。その上で、聖書に反する部分は受け入れない一方で、反しない部分については、相手の立場を考慮しつつ、検討すべきであろう。
 ハイエクは、道徳、慣習、法、市場、言語といった社会的な制度について、本能によってもたらされたものではなく、また理性によって作為されたものでもなく、長い歴史の中で徐々に自生的に進化し、成ったものであると考える。この点に関しては受け入れることは出来ない。
 とはいえ、ハイエクの学説全体を遮断し、無視すべきではない。社会主義福祉国家の路線の誤りが明白になった今、聖書的な経済政策とは何かを考えるにあたって、ミーゼスやハイエクといったオーストリア学派の経済思想から学ぶべきことは多い。