Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書5章35節~6章6節

聖書研究 マルコによる福音書5章35節~6章6節(新共同訳 新約pp.70-71)

(1) 死んだ娘を生き返らせたイエス・キリスト(5章35~43節)

 出血の止まらない女の癒しのために時間を割いたイエス・キリストのもとに、ヤイロの娘が死んだという知らせが届いた。ヤイロの家から来た人々は彼女の死を既成の事実として受けとめ、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」とイエス・キリストに告げた(35節)。
 それに対し、イエス・キリストは「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)とヤイロに言われた。もしヤイロが人間の言葉に従っていたら、彼の娘が生き返ることはなかっただろう。しかし、ヤイロは最後まで希望を捨てなかった。そして、イエス・キリストが「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(タリタ、クム)と言われた時(41節)、彼は娘が「すぐに起き上がって、歩きだ」すのを見ることが出来た(42節)。
 イエス・キリストは、旧約のエリヤやエリシャのように(列王記上17章17~24節、列王記下4章32~35節)、死者を起こされた。死者が生き返ることは、詩編やダニエル書、イザヤ書などで、主なる神の終末的な統治が臨む時に起こることとして預言された。それ故、イエス・キリストがヤイロの娘を生き返らせたことは、ラザロを生き返らせたことと共に(ヨハネによる福音書11章)、主なる神の終末的な統治が、イエス・キリストを通して始まっていることを知らせる出来事として理解すべきだろう。
 人間の言葉に振り回されると、私達は必然的に落胆と絶望に陥る。しかし、イエス・キリストの言葉には常識や経験を超える力と希望がある。

(2) ナザレで受け入れられないイエス・キリスト(6章1~6節)

 イエス・キリストの「故郷」(1節)であった「ナザレ」(ルカによる福音書4章16節)の人々は、イエス・キリストが「授かった知恵と、その手で行われる」「奇跡」に驚きつつも(2節)、イエス・キリストがこの地に神の国をもたらした主なる神の御子であると悟ることが出来なかった(3節)。彼らにとっては、イエス・キリストは「大工」であり、また「マリアの息子」、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」以上のものではなかった(3節)。
 故郷の人々がご自身について正しく認識出来なかったことに対し、イエス・キリストは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)と言われた。そして、「人々の不信仰」(6節)の故に、イエス・キリストは「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)。故郷では信仰をもってイエス・キリストのもとにやって来る人が殆どいなかったため、御業を現されることもなかったのかも知れない。
 私達は自分の先入観をもってイエス・キリストを判断しないよう気をつけなければならない。よく知っているという思い上がりが却って霊的な無知をもたらす。近い間柄であればあるほど、真理であられる「イエスにつまずい」(3節)てしまうことがある。どれほど多くの恵みを与えられても、イエス・キリストに対して不信の目をもって見る人は、真の命を得ることが出来ない。イエス・キリストに対する固定観念や偏見を捨てる時、私達は、真理を正しく見る目が開かれ、イエス・キリストを通して天のあらゆる祝福に与ることが出来る。