Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Reinhold Niebuhr Moral Man and Immoral Society Chapter Nine

Reinhold Niebuhr Moral Man and Immoral Society Chapter Nine
【関心・疑問】

【論文名】
第九章 政治のなかに道徳的価値を保持すること

【著者名】
Reinhold Niebuhr (大木 英夫訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Moral Man and Immoral Society: A Study in Ethics and Politics, New York: Charles Scribner’s Sons, 1953, pp.231-256
 (『道徳的人間と非道徳的社会』イデー選書, 東京: 白水社, 1998年, pp.245-269)

【本文の構成】
一九六〇年版への序
緒論
第一章 人間と社会――共同生活の技術
第二章 個人における社会生活のための理性的資源
第三章 個人における社会生活のための宗教的資源
第四章 国家の道徳性
第五章 特権階級の倫理的態度
第六章 プロレタリア階級の倫理的態度
第七章 革命による正義の実現
第八章 政治的力による正義の実現
第九章 政治のなかに道徳的価値を保持すること
第十章 個人的道徳と社会的道徳のあいだの相克

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 社会的な論争において怒りを最小限になくしていくことに価値を認めることは、怒りが無価値であるとか、それが完全に悪だとかいうことを意味するものではない。怒りとは、ロス教授がみているように、不正義にたいする感受性のたんに自己中心的(エゴイスティック)側面にすぎない(1)。それがまったく欠如するということは、社会的知性の欠乏、あるいは道徳的活力の欠乏を意味しているだけである。自分の人種にたいしおかされた不正義を怒る黒人は、なんの感情的反応もなくその不正義に忍従している黒人よりも、その人種の究極的解放にたいしより大きな貢献をする。しかし、その怒りのなかから自己中心的(エゴイスティック)な要素が除去されるならばされるほど、怒りは、ますます純粋な正義の担い手となるのである。怒りのうちにふくまれる自己中心的(エゴイスティック)要素は客観的立場からは正当とみなされることがあるかもしれない。しかし社会的論争の相手側からみれば、それはけっして正当とはみられず、そしてただたんに相手の自己中心主義(エゴイズム)をかきたてるだけなのである。(pp.249-250; 邦訳p.263)

【コメント】
 キリスト者は聖書的なものと非聖書的なものを識別することを求められている。その上で、聖書に反する部分は受け入れない一方で、反しない部分については、相手の立場を考慮しつつ、検討すべきであろう。
 ニーバーは聖書を神話として捉える。それは不可避的に、創造、堕罪、処女降誕、贖罪、体の復活、再臨といった啓示の核心的出来事に対する彼の見解に影響を及ぼしている。ニーバーの聖書解釈は到底受け入れることは出来ない。
 その一方で、本書における現実の諸問題に対するニーバーの洞察・分析からは学ぶべきことがある。