Five Solas Ministry

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G. K. Chesterton Orthodoxy I

G. K. Chesterton Orthodoxy I
【関心・疑問】

【論文名】
1 本書以外のあらゆる物のための弁明

【著者名】
G. K. Chesterton (安西 徹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G.K. Chesterton;1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.211-215
(『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.3-12)

【本文の構成】
1 本書以外のあらゆる物のための弁明
2 脳病院からの出発
3 思想の自殺
4 おとぎの国の倫理学
5 世界の旗
6 キリスト教の逆説
7 永遠の革命
8 正統のロマンス
9 権威と冒険

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 何となれば、もしこの書物が冗談だとしたならば、冗談の種は私自身にほかならぬからである。ほかならぬこの私こそ、すでにとうの昔に発見ずみの真実を、今さら大勇猛心をふるって発見したというその男なのである。本書の中にいささか道化芝居じみたところがあるとすれば、道化役は誰あろうこの私である。なぜかと言えば、本書の眼目は要するに、われこそはブライトンに人類最初の第一歩を印した男と勇み立っていたこの私が、実は人類最後のどんじりだったと発見する経緯を説明するにあるからだ。(邦訳p.9)

 巨象のごとく無器用に、初めから自明の結論を今さらのそのそ探し回る一部始終が本書の物語にほかならぬ。私の経験の馬鹿馬鹿しさを、私自身ほどよく知っている人はほかにありえない。どんな読者も、私が読者を馬鹿にしていると文句をつけることはよもやできない。私こそこの物語の馬鹿なのだ。私こそ馬鹿の王様なのだから、どんな馬鹿がやって来たところでこの馬鹿の玉座をゆずり渡す気は毛頭ない。つつみ隠さず白状するが、私は十九世紀末葉の馬鹿げた野心のことごとくを抱いていた。当時の真面目くさった青二才どもの例に洩れず、時代を一歩先んずることに無上の情熱を傾けていた。真理の十分か十五分ばかり先を進むことに汲々としていたのである。何のことはない。気がついてみれば、私は千八百年も遅れを取っていたのだった。私は声をふりしぼり、痛ましくも青くさい興奮に肩を怒らせ、私一人の真理を発見したと叫んでいたものだ。私はもののみごとに罰をくった。滑稽きわまる罰であった。後生大事にその真理を手許においていたために受けた罰だ。ただし私は新しい発見をした。それが真理でないことを知ったのではない。「私の」真理でないことを知らされたのだ。私は唯一人、予言者のごとく立っていると思いこんでいた。あにはからんや、まこと赤面の到り、実は私の背後には、全キリスト教徒が私を見守って立っていてくれたのである。私はおそらく独創的であろうと懸命になっていたのであろう。だが私が成功したことは何であったか。現に精妙な宗教の伝統が存在していることに気がつかず、気がついた時には、独力で苦心惨憺作り上げた物たるや、その宗教の貧弱きわまるコピーにしかすぎぬことを発見したのである。ヨットの男は、われこそはイギリスを最初に発見したものと思いこんだ。私は、われこそはヨーロッパを発見した最初の人間と信じこんだ。私は自己一流の異端を建立しようと努めていたのだが、仕上げの一筆をおいた時、何とこれが、まさに正統にほかならぬことに気がついたというわけである。(邦訳pp.9-10)

【コメント】