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G. K. Chesterton Orthodoxy IX

G. K. Chesterton Orthodoxy IX
【関心・疑問】

【論文名】
9 権威と冒険

【著者名】
G. K. Chesterton (安西 徹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.346-366
(『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.257-296)

【本文の構成】
1 本書以外のあらゆる物のための弁明
2 脳病院からの出発
3 思想の自殺
4 おとぎの国の倫理学
5 世界の旗
6 キリスト教の逆説
7 永遠の革命
8 正統のロマンス
9 権威と冒険

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 まず第一の答弁として、私が合理主義者だという単純な事実を挙げねばならない。私の直観的に感じ取ったことにたいして、私は何らかの知的な論拠を持ちたいと思うのだ。つまり、もし人間が本来罪ある存在と感じられるとすれば、人間は原初において罪を犯したと信ずるほうが、少なくとも私にとっては知的に便利なのである。人間が自由意志を行使しているという事実を説明するには、やはり人間には自由意志があると信じるほうが、何かしら不可思議な心理的理由からして、少なくとも私には都合がよろしいのだ。けれども、私がこの問題について合理家だということには、もっと確固たる理由がさらにある。私はこの書物を、ありきたりのキリスト教護教論にするつもりはない。機会さえあれば、本書などよりもっと正面切った護教論の演壇にかけ登って、キリスト教の敵を迎え撃ちたい気持は十二分にある。だが今は、私はただ、私自身がどのようにして宗教的確信を深めるに到ったか、その成長の過程を物語ろうとしているだけである。それにしても、しかし、事の序にちょっとだけ脱線して言っておこう。キリスト教の世界観にたいする反論として、単に抽象的な議論の数々が行なわれているのを見れば見るほど、私はそういう議論などにはだんだん注意を払わなくなったということだ。つまり、受肉という問題の道徳的な意味あいは普通の常識だと気がついてみると、受肉にたいして言われている普通の知的な反論などはまったくの非常識だとわかってきたのである。以下私の論ずるところが、普通の護教論的論議が欠けているばかりに、弱体となっていると考えられては困る。だからごくごく手短に、この問題の純粋に客観的、科学的真実について、私自身の主張と結論を要約しておくことにする。(pp.347-348; 邦訳pp.260-261)

 歓喜は、異教徒の時代にも広く人に知られたものではなかったが、キリスト教徒にとっても巨大な秘密である。この支離滅裂な書物を閉じようとする今、私はもう一度、キリスト教のすべての源泉となったあの不思議な小さな書物を開いてみる。そして私はもう一度確信を新たにされるのだ。福音書を満たしているあの異様な人の姿は、他のあらゆる点についてと同じくこの点においてもまた、みずから高しと自信したあらゆる思想家に抜きんでて、ひときわ高くそびえ立つのをおぼえるのである。この人の涙は自然にほとばしった。ほとんど不用意と思えるほどに自然であった。ストア派は、古代と現代を問わず、みずからの涙をかくすことを誇りとした。だがこの人はみずからの涙を一度もかくしはしなかった。日常茶飯の事物に触れて、たとえば生まれた町を遠く眺めた時にすら、面(おもて)をかくすことをせず、明らさまに涙を見せて憚らなかった。だが彼には何かかくしていることがあった。厳粛な超人や帝国を代表する外交家たちは、みずからの怒りを抑えることを誇りとしている。だが彼は一度もみずからの怒りを抑えようとはしなかった。寺院の正面の階段から机や椅子を抛り投げ、どうして地獄に堕ちないですむと思うのかと人びとに詰問もした。だが彼には何かかくしていることがあった。私は敬虔の心をもってこれを言うのだが、この驚くべき人物には、恥じらいとでも言うほかない一筋の糸があった。彼が山に登って祈った時、彼には、あらゆる人間からかくしているものが何かしらあったのだ。突然黙りこくったり、烈しい勢いで人びとから孤立することによって、彼が人の目からかくしていることがたしかに何かあったのだ。神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれ人間に見せるにはあまりに大きすぎるものが、たしかに何かしら一つあったのである。そして私は時々一人考えるのだ――それは神の笑いではなかったのかと。(pp.365-366; 邦訳pp.295-296)

【コメント】