Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Chesterton, Orthodoxy, pp.273-274 (安西訳『正統とは何か』pp.119-121)

G. K. Chesterton, Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.273-274
(安西 徹雄訳『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.119-121)

「先程からも言うように、人生にたいする第一義の忠誠というものは不可欠である。それは決まったとして、問題は、それが自然的な忠誠か、それとも超自然的な忠誠であるべきかということである。お望みとあれば、理性的な忠誠か、それとも非理性的な忠誠であるべきか、と言い直してもさしつかえない。さて、きわめて驚くべきことは、悪しきオプティミズム――つまり単にペンキ上塗り式の、あらゆるものを盲目的に弁護する薄弱なオプティミズムは、実は理性的、合理的オプティミズムだということだ。合理的オプティミズムは停滞を生む。改革に導くのは非合理的なオプティミズムのほうなのである。もう一度、愛国心の類例を利用して説明しよう。自分の愛する場所を滅ぼすおそれがいちばんあるのは、その場所を何かの理由があって理性的に愛している人間である。その場所を立ち直らせる人間は、その場所を何の理由もなく愛する人間である。ピムリコのある特徴が好きな男がいたとする。(ありそうもないことではあるが。) その男の立場は、結局、ピムリコそのものは嫌いだがその特徴だけは好きだ、ということになってしまうだろう。けれども、ただピムリコそのものが好きだという男がいたとすれば、たとえそれが荒れ放題に荒れ果てていたとしても、なおピムリコを新しきエルサレムにすることができるはずである。改革には行きすぎがありうることは私も否定しない。ただ、改革を行ないうるのは神秘的な愛の持主だと言いたいだけである。自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。こういう連中の最悪の手合は、イギリスそのものを愛するのではなくて、自分の解釈するイギリス、自分のイギリス観を愛しているにすぎぬのである。もしイギリスを偉大な帝国であるがゆえに愛すれば、インド征服がいかに大成功であるかに得意の鼻をうごめかしかねない。しかし、もしイギリスを一つの民族として愛すれば、どんな事件にぶつかろうとも少しも動じることはない。たとえインド人に征服されたとしたところで、イギリスが民族であることに変わりはないからだ。同じように、愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである。イギリスがただイギリスであることを愛する人なら、イギリスがどうして興ったかを気にしはしない。だがイギリスがアングロ・サクソンであるがゆえに愛する連中は、自分の好みを押し通すために歴史の事実をことごとくねじ曲げることさえやってのける。たとえばカーライルやフリーマンのように、ノルマン人の征服は実はサクソン人の征服だったなどと言い出す始末になる。こんな途轍もない不合理に終わるのも、もともと彼らの愛国心が合理的だったからである。あるいはまた、たとえば、フランスが強大な陸軍国であるがゆえにフランスを愛する男は、普仏戦争で破れたフランスの軍隊を弁護して、何とか言い繕おうとするだろう。だが、フランスがただフランスであるがゆえにフランスを愛する者は、破れたフランス軍を急いで立ち直らせようとするだろう。そして事実これがフランスのやったことであり、そしてフランスはこの有効な逆説の適例なのである。愛国心がこれほど恣意的で現実ばなれしている例はないが、同時に改革がこれほど徹底的で網羅的な例もほかにない。つまり、愛国心が超越的であればあるほど、政治の施策もそれだけ現実的になるという逆説である」