Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Chesterton, Orthodoxy, pp.250-251 (安西訳『正統とは何か』pp.75-76)

G. K. Chesterton, Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.250-251

(安西 徹雄訳『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.75-76)

「けれども、若いころから私には一度も理解できないことが一つある。民主主義は、どういうわけか伝統と対立すると人は言う。どこからこんな考えが出てきたのか、それが私にはどうしても理解できぬのだ。伝統とは、民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかならぬではないか。それはどう見ても明らかなはずである。何か孤立した記録、偶然に選ばれた記録を信用するのではなくて、過去の平凡な人間共通の輿論を信用する――それが伝統のはずである。たとえば、カトリック教会の伝統に反対して、誰かドイツの歴史家の学説を採用する男がいたならば、彼の立場は厳格な貴族主義だと言わねばならぬ。なぜならそれは、大衆の畏怖すべき権威に敵対して、たった一人の専門家の権威を優越させる立場だからである。なぜ伝説のほうが歴史書より尊敬され、また尊敬されねばならぬのか。その理由は容易に理解できる。伝説はどこでも、村の正気の大衆によって作られる。ところが書物はふつう、村のたった一人の気ちがいが書くものだからである。過去の人間は無知であったなどという伝統否定論は、保守党のクラブへでも行ってぶてばよろしい。ついでにもう一つ景気をつけて、貧民窟の選挙民は無知であるとぶち上げるのもご随意であろう。だが、われわれにはそんな議論は通用しかねる。現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する――それが民主主義というものだ。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する――それが伝統だ。民主主義と伝統――この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。二つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない。これは少しも異例でも略式でもない。なぜなら、ほとんどの墓石には、ほとんどの投票用紙と同様、十字の印がついているからである」